第4章 大江健三郎作品から読みとれるもの

   1.大江における障害受容と文学作品の展開
 2章、3章でいくつか作品を挙げ、それぞれの作品の表現に注目して、重要と思われる点を指摘してきた。本節では、それらを総合して、時間の流れにそって、作品の変遷を追ってみたい。  まず、作品の発表(執筆)年代を確認するために、以下に箇条書きにしておく。

〈1963年6月、光誕生〉
「ヒロシマ・ノート」(1963年8月〜執筆、1964年10月-1965年3月『世界』)
「空の怪物アグイー」(1964年1月『新潮』)
『個人的な体験』(1964年8月、新潮社)
「父よ、あなたはどこへ行くのか?」(1968年10月『文学界』)
『洪水はわが魂に及び』(1973年9月、新潮社)
「ピンチランナー調書」(1976,8-10,『新潮』)
『新しい人よ眼ざめよ』(1983年6月、講談社)
『静かな生活』(1990年10月、講談社)

 作品に登場する、書き手・大江健三郎とその息子・光に近い状況にある人物たちは、おおむね現実の彼らと同じ年齢で登場している。ゆえにこれらの作品を時系列に確認することで、大江の障害受容の過程を見ることができると考える。
 本稿2章では、光が誕生した直後の、息子の存在を受け入れるまでの葛藤の様子を確認した。そして3章以降では、息子とともに生きようとし、息子の障害の解釈、障害を積極的に評価する姿勢へと移行していることがわかった。
 具体的には、「ヒロシマ・ノート」執筆時には、光に手術を受けさせるか否かを迷っており、原爆記念日に広島を取材したときには死者を弔う灯籠に、ためらわずに「光」と書いて流したのだというエピソードが「響きあう父と子」の中で語られている。また、その後に放映されたNHK番組「大いなる日へ」では立花隆との対談で、実は灯籠は「健三郎」と書いたものもいっしょに流したことを思い出した、と語っている。当時は「大きな障害のある子を、生きている人間として受けとめて、一緒にやっていく勇気というか、粘りというか、そういう、まっすぐに立っている心というものがなかった」(響きあう父と子)、「できれば死んでくれればいい、と思ったことはある」(大いなる日へ)とも語っている。その心境を裏付けるのが、「空の怪物アグイー」である。
 「空の怪物アグイー」では子どもを殺す選択をした後の父親の末路を描いた。自分と妻との生活を守るために子どもを殺したはずが、結局は離婚することになり、父親自身も自責の念に囚われて最終的には生きていくことができなくなった。一方、『個人的な体験』では逡巡に逡巡を重ねたうえで、最終的に障害のある子どもとともに生きていく決意をする。鳥が「現実生活を生きるということは、結局、正統的に生きるべく強制されることのようです」と語り、前向きに生きようとする展望をあらわして物語が終結する。
 さて、ともに生きていく決意をし、実際に生活をともにする中で、どのような状況になっていくのか。「父よ、あなたはどこへ行くのか?」では感情の共有が描かれている。ことばは使えなくても、掌を介して互いに感情をやりとりできる、と感じることができる父親の様子が具体的なエピソードで描かれる。また、父親の言葉を「唱和」するように答える息子と、「完全なコミュニケイションがおこなわれた、と考えて幸福になった」とも語られる。自分たち親子なりのやりとりが成立しているとの自覚ができていることがわかる。
 『洪水はわが魂に及び』では、さらに具体的に、どのようにして息子が言葉を話すようになったかの過程が語られる。息子とコミュニケイションできるという自覚ができてから、ある程度の時間を経て、何が息子の言葉をつくったのか、についても考えられるようになってきたのだろうと推測される。さらに息子が父親以外の人物ともコミュニケイションできていく様子までが描かれていく。息子の可能性の広がりが期待されている。
 そして『ピンチランナー調書』に至ると、障害のある子が革命を起こす、社会へ大きな影響を及ぼす力をもつ可能性がファンタジックに描かれる。それまで個人的な事柄でしかなかったことが、社会へ向けて提起すべき事柄へと変化している。また、父親と息子が「転換」した場合、息子が父親の年齢になって、立場が入れ替わった場合を想定し、父親が父親としての役割を終えても息子が自立して生きていける姿を、希望をもって描いている。
 1981年10月に第9回全道肢体不自由児者福祉大会での記念講演で大江は、障害児が客観的に、社会にとって積極的に必要か?との問いを立て、次のように答えている。

 それは人間の根本の問題ということを考えてゆけば、しかも自分の問題として考えてゆけばはっきりすることだ。(中略)障害児がいるということは、いろんなことを人間について教えてくれる大切な契機なのだ、そこに重要な意味がある。それは具体的にいちいち発見することのできる意味だといいたいのです。(中略)われわれ障害児をもっている家族の人間は、あるいは障害をもった人自身は、みんなの先頭に立って走ってゆく人間ではない者として、つまりうしろからついてゆく人間として、そういう前のめりになったものの考え方、政治は危ないのだといわねばならぬ。(中略)そう考えれば、そういう障害を持った人たちが社会に完全参加する、そして平等をかちとるということには、まさに積極的な意味が見えてくる。

 国際的な競争のために、福祉を切り捨てて軍備予算を強化するような政治は、子や孫の世代のことを考えると危険であると呼びかける義務がある、というのである。ここでは障害の受容を越えて、障害があるということに意義を見出している。その考え方が文学作品では『ピンチランナー調書』で大きく取り上げられていた。
 『新しい人よ眼ざめよ』では、それまで父−子間の関係性を中心に考えられてきたことが、家族全体の問題として捉えられている。そして『静かな生活』ではついに語り手が女性(娘)になり、父親をより離れた視点から客観視することが可能になっていた。本作は家族の中での父親の役割がどのようなものであるか、を、父親ではない、ほかの家族の立場から捉えなおすことができる作品であった。
 実生活では、ずっと連続した時間の中で、受容されたり、受容されなかったりを繰り返す、常に「仮の受容」であると大江は上田敏との対談で述べている。作品に書くのは「仮の受容の達成」であることもあわせて述べている。時系列に作品を並べて、その表現の流れを追ってみると、「仮の受容」にもひとつの流れがあり、少しずつ希望のある、光のさす方へと向かっていけることが示されている。

   2.大江作品の示唆するもの
 本稿1章の最後に、父親の役割について3つ挙げておいた。それが大江作品ではどのように表れているのかをまとめておきたい。
 大江は父親の視点から子どもとの関係を描くということを中心に行っていたので、@母親の精神的な支えについては、ひとまずおいておく。
 A母親とは違う視点から、母親が意識化・言語化していない事柄に意味づけ・発想の転換を行う、ということに関しては、特に「父よ、あなたはどこへ行くのか?」などに顕著に描かれていた。母親ではなく、父親の自分こそが、子どもとコミュニケイションできる、という感覚である。掌を介しての感情の共感は父親にしかできない。しかし実生活において役立つこと(視力を補うための眼鏡づくり、知的障害者が利用できる施設探しなど)は母親が行っているのであり、それとはまったく違った視点で父親が子どもと関わり、それを言語化していることは明らかである。そしてこのことがすなわち@母親の精神的な支えにつながっていくものと考えられる。母親にできないことを、父親が行っており、互いに支えあっていると言えるだろう。
 B社会へのつながりをつくる、については、文学作品として自分たちの様子を描き、世に問うている姿からすぐに理解される。また、リハビリテーション世界会議での基調講演、肢体不自由児者福祉大会での記念講演など、まさに障害の受容という問題について考える指標を必要としている人々の前に立って、社会的な役割を果している。これは光が誕生し、その光とともに生きているからこそ生れた大きな社会的な仕事であり、光が行う社会的な仕事であるとも言える。光に、そのような社会的な仕事を与えているのが、父親たる大江の仕事である、と言うことができる。



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