第2章 大江健三郎作品解題1―― 障害を受容するまで

   1.「ヒロシマ・ノート」、光について
 大江健三郎は28歳のときに生まれた長男・光のことを多くの場で語っている。その姿から、障害受容の過程と父親の役割について考えていきたい。
 はじめに光について、NHKのドキュメンタリー番組「響きあう父と子〜大江健三郎と息子 光の30年〜」(1994.9.18放送)を参考に述べておく。
 1963年6月13日誕生。脳に障害があったため手術し、知的障害と軽い視覚・運動障害がある。養護学校を卒業して以来10年間(1994年現在)、世田谷区立烏山福祉作業所へ通っている。13歳で突然てんかんの発作を起こして以来、ときどき発作が起こるため、緊張と疲労が大敵である。
 乳児期には両親の呼びかけにもほとんど応えなかったが、3歳のとき、ラジオで流れた鳥の声に強く反応したので、健三郎は鳥のレコードを収集し、光はそれに聞き入った。6歳ではじめて言葉らしい言葉を話し、以来どんどん覚えた。8歳で2年遅れて小学校の障害児学級へ入学した。
 13歳のときにてんかん発作をおこした。その後遺症で沈み込むようになり、口数も減った。そうした苦しい中で音楽と出会った。ピアノを教えたが上達しないので、聴いた音を楽譜に書き取るゲームを開始すると、光は熱中した。レコードを聴いて、それを五線譜に書き留めるということをし始め、ベートーヴェンのソナタ「熱情」なども書き留めることができるほどであった。そのうちにピアノの先生の知らない曲、すなわち創作が出てきた。
 涙を流さないので、哀しみを感じないのかと思っていたが、光が作曲した曲を聴いて、哀しみを感じていることがわかった。たとえば主治医の森安医師が死去したという知らせを聞いて大きな発作を起こし、その翌日に「Mのレクイエム」を作曲したことがある。
 1994年夏、ヒロシマで曲を演奏したいという申し入れがあり、健三郎が「ヒロシマ」という新曲をつくってはどうか、と提案したので、光は作曲に取り組む。健三郎は原爆資料館につれていくつもりもあり、事前に本や写真資料でヒロシマについて光に伝えようとする。
 光ははじめ楽譜に「ヒロシマ」と書いていたが、だいたい出来上がったところで「夏」、最終的に「長い夏」という題へ変えた。4部構成の曲だが、はじめは楽しげな曲が、最後の「かえりみち」で暗く沈んで終る。言葉や表情では表現できないが、ヒロシマというものの印象から受けた感情を音楽で表現している。原爆資料館を見学した後、健三郎に感想を求められ、「すべてだめです、た」と一言言った。
 以上、おおまかに光の実際の成長について述べたが、では父親は子についてどのように考えていたのか。まず、光の誕生が大きく影響した最初の作品である「ヒロシマ・ノート」について見ていく。
 「ヒロシマ・ノート」は光に脳の手術を受けさせるか/受けさせないかを迷っている時期、まだ生命の危機が去っていない時期(1963年8月)に執筆が開始された作品で、光について直接ふれている部分はない。しかし、その後の作品が書かれていくための、障害を受容するためのきっかけを、ヒロシマから得ている。大江は広島日赤病院長で原爆病院長を兼務した重藤文夫を「正統的な人間の一典型」と表現している。大江が重藤ら「広島的なる人々」から受けた印象について端的に表現されている部分を下に引用する。

かれら少数のしかも傷つける医師たちは、全市をうずめるおびただしい死者たちにかこまれて、ただ赤チンキと油で十数万人の負傷者たちに対処する蛮勇をもちあわせたのである。そして、これらの救護者たちの向こう見ずの努力こそが、大洪水後の広島の最初の希望の兆候であった。
(中略)
医師たちは大きいハンディを背負っていたし決定的に立遅れていた。しかし、重藤博士たちはなおかつ屈伏しなかったのである。(中略)いわば、かれらは単に屈伏することを拒否したのだ。屈伏しないでいることをたすける有利な見とおしなどなにひとつありはしなかった。ただ、かれらは屈伏することを拒否した。
(中略)
広島の悲惨を正面からひきうけ、戦後の二十年の間、それを、ひきうけつづけたのである。その、ねばりづよい持続。


 これ以後、重要な語句として引き継がれていくキィワードは「蛮勇(気)」「屈伏(の拒否)」「ねばりづよい持続」である。この3つの言葉が以後に発表される作品の中で使われていくことになる。

   2.「空の怪物アグイー」(1964年1月『新潮』)
 光誕生後、最初に発表された文学作品が「空の怪物アグイー」である。物語の語り手は「ぼく」、語られている現在28歳である。しかし、語る内容は10年前に起きた事柄で、当時「ぼく」は18歳、大学に入ったばかりのころ、洋書を買うためのアルバイトを行った。そのアルバイト内容に関することが語られる。
 「ぼく」が伯父から紹介された銀行家に斡旋された仕事は、銀行家の息子である若い音楽家Dの外出に付き添うことだった。Dは当時28歳で、現在の「ぼく」と同じ年齢、また書き手の大江に光が誕生したときとも同じ年齢であることから、Dと「ぼく」は書き手にかなり近い存在として描かれていることがわかる。また、歯ならびが悪いことも「ぼく」とDに共通している点で、この表現も、以後の作品で大江自身と引き付けていると思われる登場人物たちに共通して使われていく。
 Dはフランスとイタリアで賞をもらった前衛的な音楽家であるが、スキャンダルを起こしたことがあり、@生まれたばかりの赤んぼうに死なれたA結果、離婚Bある映画女優との関係を噂されていた。いずれについてもD本人から話されることはないが、Dにとりついているという幽霊のことや、これまでの経緯について、看護婦、元妻、映画女優から話を聞くうちに少しずつ解明されていく。
 Dの父、銀行家は「うちの息子が最近、やはりああいう風に(引用者註:映画《ハーヴェイ》)怪物にとりつかれるんだよ。それで仕事もやめて蟄居している。時どきかれを外出させたいんだがその附添いがいなくてね、きみがそれをやってくれないか?」と話していた。D本人は自分が見えるものについて、以下のように語る。

「晴れた日には、空を浮遊しているものがよく見えるんだ。そのなかに、あれがいて、ぼくが野天の場所に出てくると、たびたび空から降りてくるんです」
(中略)
「きみにその浮游しているものが見えもしなければ、もしあれがいまぼくの脇に降りてきているとして、かれを発見することもできはしないことはわかっているんですよ。ただ、あれがぼくのところに降りてきているとき、ぼくがあれと話しても、不思議がらないでくれればいい。突然きみが笑いだしたり、ぼくを黙らせようとしたりすれば、あれがショックをうけるからね。そして、ぼくが時どきあれとの会話の途中で、きみに相槌をうってもらいたがっているとわかったら、相槌をうってもらいたいんだ、それも肯定の相槌を」


 ここではDが「肯定」してもらいたい、と言っていることに注目したい。「あれ」が「ぼく」には見えない存在であることを自覚しながらも、その存在を肯定してもらいたいのだ、つまり自分の考え方を否定しないでもらいたい、という姿勢と読み取れる。しかし「ぼく」は簡単には「あれ」の存在を鵜呑みにせず、自分なりに調査し、納得しようとする。その行動は、物語に説得力をもたせ、書き手自身が自分を(もちろん読者をも)充分に納得させるために突き詰めて考えている様子を想像させる。
 「ぼく」が怪物についてさらに知るために、Dにつきそっている看護婦をつかまえて話を聞くと、怪物の名前はアグイーといい、「木綿地の白い肌着をきた肥りすぎの赤んぼう」で「カンガルーほどの大きさ」があるらしいことがわかる。また、Dの離婚した妻の話により、詳しい事情が見えてくる。アグイーというのがDと元妻との間の死んだ赤んぼうの幽霊であり、その赤んぼうには生まれつき「頭がふたつある人間にみえるほど大きい瘤が後頭部についていた」、そして悲観したDは医者と相談して妻の意識が戻る前に赤んぼうを「殺してしまった」のだという。後頭部に大きな瘤があり、まるで頭がふたつあるかのように見える、というイメージは以後の作品でも頻出し、書き手の息子・光と重ねあわされていると理解できる。
 この作品では、実際には行わなかった行為、すなわち子どもに手術を受けさせずに生命を守ってやらなかった場合、どのような展開になるのかを作家自身が試みに描いている、と言えるだろう。その結果、妻とは離婚して家庭が失われ、D本人は自殺寸前の状態に追い込まれる。「ぼく」は元妻の話からDの精神状態が悪いのではないか、自殺してしまうのではないかと懸念するが、Dには直接的に自殺をしようとしている様子は見られない。しかし、「ぼく」との外出の際には他人と決してかかわらず、現実の世界に自分の痕跡を残さぬようにしており、その状態は映画女優が言うように「現実の《時間》を積極的に生きなくなった」ようである。そしてクリスマス・イヴに、交叉点でアグイーを助けようとトラックの間に跳びだして死亡する。客観的には自殺と受け取れる状況で、「ぼく」は自分がDの自殺をたすける仕事(自殺を前にした身辺整理)をしてしまったのではないかと悔む。このように物語の枠を保ってはいるが、登場人物たちと書き手との距離がかなり近い作品であることがわかる。

   3.「個人的な体験」(1964年8月、新潮社)
 「空の怪物アグイー」は一人称で書かれていたが、本作は三人称が用いられている。中心人物は鳥といい、27歳4か月で、妻が出産している時点から物語がはじまる。この妻が障害児を出産するので、三人称ではあるが鳥は大江にかなり引き付けられた人物であると言えるだろう。また、物語の冒頭では子どもがどのような状態で生まれるかは不明だが、鳥が本屋でアフリカの地図を眺めている場面で「アフリカ大陸は、うつむいた男の頭蓋骨に似ている」と考えており、その後にあきらかになる子どもの障害を暗示している。
 鳥はアフリカへ行って「反・日常的な風土で自分を試してみたい」と思っているが、子どもが生まれて守るべき家庭ができてしまうと、そのように自分のためだけに生きることができなくなることを意識している。旅行のための資金も用意しつつ、物語冒頭では安価な実用地図を買う。旅行のための資金はのちに子どもの医療費に使われることになる。その帰り道に、不良少年たちに囲まれ、暴力をうける。
 少年たちに囲まれて暴力をふるわれる(またはその恐れがある)状況は、別の作品でもあらわれる。先の「空の怪物アグイー」では、語り手とDが散歩中にアグイーの恐れている犬の集団に取り囲まれる場面がある。また、次にふれる予定の「父よ、あなたはどこへ行くのか?」『洪水はわが魂に及び』でも同様の表現が用いられる。これは多くの恐怖に取り囲まれるイメージであると考えられる。それも、自らの過失によって呼び寄せられたものではなく、外部から望まない恐怖を、唐突に浴びせかけられる。これは大江にとってはヒロシマに象徴される、ある恐怖の一形態であると思われる。
 このようにして恐怖、事故、災害、不幸は唐突にやってくるので、こちらは準備をすることができず、対応も遅れるが、しかし、それらに「屈服」せず「蛮勇」をもって「粘り強く」立ち向かおう、と「ヒロシマ・ノート」では結論づけていた。『個人的な体験』ではこのようにして鳥の個人的な事柄として子どもの誕生を描き、肯定的には受け止めきれないまでも(またかなり迷い、回り道をしつつも)、とにかく自分の子供を引き受ける、という意味で、「空の怪物アグイー」のDと対極をなす。しかし、すぐにはそのような心境に至れない若い父親である鳥の、苦しい心の動き、あがきのようなものが本作品いっぱいにつまっているのである。この作品から、若者だった人間が親になり、しかも第一子が障害児であったときの苦しみの様相が読み取れる。
 その苦しみを端的に表現しているのが、子どもに手術を受けさせるか/受けさせないかの選択を迫られる場面である。医師は「もちろん、あなたは手術を拒否することができるんですよ!」と鳥に言う。現実に医師が医師の立場でそのような言葉を言うのかどうかは別として、そのような迷いが親の中に去来することは少なからずあるようだ。
 たとえば障害児の親の手記をみると、子どもと一緒に死んでしまおう、と考えたことがあるという記述が散見する。そしてそこまで考えてみて、どうせ死ぬものならば、できるだけやってみてからもう一度考えよう、と別の方向へ歩きはじめることも多いようである。そのような心の動きが、大江においては「空の怪物アグイー」と、この『個人的な体験』との対比から読み取れる。
 本作で注目したいのは、世界(生命)のとらえ方について考えられている点である。鳥が「ぴったりした他人」と呼ぶ、火見子という大学の同級生が語るものである。それは「多元的な宇宙」で、生死の境を経験したときに世界が分化するという考え方である。そうして「わたしたちを囲む世界はつねに増殖してゆく」という。最終的には90歳で老衰死する。そこまで一人の世界は誰も等しく続いていくというのである。だから赤んぼう(や、他の人)が死んでも悲しまなくてよい、別の世界で生き続けているのだから、という考え方だ。それを鳥は、「心理的な詐術」と評する。火見子は「すくなくともわたしはこちら側の宇宙での責任を回避してはいないわ」と反論する。すくなくとも、心の救いについて考えながらも、死んだ者が失われた世界を生きるという責任を負っていると主張する。鳥はさらに「しかしどういう心理的なトリックをもちいても、ひとりの人間の死の絶対性を、なしくずしに相対化することはできないだろう?」と言い募り、火見子を「それはそのとおりかもしれないわ」と言い負かしてしまう。
 ところで火見子はブレイクで卒業論文を書いたのだという。ブレイクは大江が多く引用する作家である。「父よ、あなたはどこへ行くのか?」『新しい人よ眼ざめよ』などでは特に大きな意味をもってブレイクの作品が用いられている。つまり本作では鳥のほかに、火見子も大江本人の考え方に引き付けられた人物だと言える。しかし火見子はただ単に作家自身に近いというのではなく、むしろ作家自身にもっとも近い鳥と対比させる、鳥を映す鏡のような存在として描かれる。火見子は鳥とは違う考え方を提示し、それについて鳥が批判することで、鳥の本質が描きだされる、という方法である。これは「空の怪物アグイー」でも、Dが交際していた映画女優が、Dについての意味づけを語っていたことを喚起させる。本人が単独で考えるのではなく、もう一歩離れた人物を配置し、そこに映し出させる。そうすることで、作家自身を客観視することが可能になりそうだ。だがこの段階では、中心人物(作家)を別の観点から照らし出すため、というよりも、中心人物を補強するために、そのような周囲の人物が配されているように読み取れる。
 物語は、友人が扉に《希望》という言葉を書いてくれた辞書で「最初に《忍耐》という言葉をひいてみるつもりだった」としめくくられる。希望をもって忍耐する、という方向性が示されて終っているのである。ただし子どもにつけられた名前は「菊比古」で、鳥とともに「不満足」(1962年5月光誕生前に発表)という作品から引き継がれたものである。名づけの問題について、「あの怪物に人間の名前をあたえる、おそらくその瞬間から、あいつは、より人間臭くなり、人間らしい自己主張をはじめることだろう」と述べられているが、まだ《希望》のある名づけ行為ではない。以後の作品で子どもの名前がどのようにつけられているかも、注意していきたい。


     
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