第1章 親の障害受容をめぐる研究状況と課題

   1.先行研究の概観
 障害児の親の障害受容過程については、桑田ほか(2004)の文献研究によって概観することができる。
 まず「障害受容」の定義だが、さまざまある中で、共通しているのは「価値の転換」がなされる、とする点である。最もよくまとまっているのは上田(1980)であり、次のように定義している。

 障害の受容とは、あきらめでも居直りでもなく、障害に対する価値観の転換であり、障害をもつことが自己の全体としての人間的な価値を低下させるものではないことの認識と体得を通じて、恥の意識や劣等感を克服し、積極的な生活態度に転ずること

 次に、障害受容の過程についてだが、従来より大きく分けて3つの立場が提示されている。1つ目はBoyd,D.(1951)が唱えた段階説(stage theory)で、親の心理的適応過程を段階的に説明しようとするものである。2つ目はOlshansky,S.(1962)が提唱した慢性的悲嘆説(chronic sorrow)で、障害児の親には慢性的に悲しみがつきまとうとする。3つ目は上記の2つを統合しようとするもので、中田(1995)の螺旋型モデルがある。これは、適応と落胆という障害に対する肯定・否定の両価的感情を併せ持ちながら進行していく、という考え方である。
 段階説は不安定な感情の動きを段階的にとらえることで、どのような心理状態がありうるのかを知るのには役立つが、障害の種類や家庭、それをとりまく地域の環境など多くの要因によってさまざまに変わってくる親の感情をひとつのモデルで説明するのは難しく、限界がある。慢性的悲嘆説は、障害とは状態が完全には改善しないものをさすゆえに、親は段階を経て完全な障害の受容をするのではなく、常に悲嘆をかかえるのだという。しかし障害児の親の手記などを見てみると、悲しいことも確かにあるが、それだけではないと反論する声もある。そこで現在、もっとも納得のいくのは中間的な螺旋型モデルである。障害児の親の心理は、ある定まった段階を経て完全に障害を受容する、という単純なものではなく、かといって常に悲しみにくれているばかりではない、障害に対する肯定的な気持ちと否定的な気持ちの両方を入れ替わり抱く、という考え方である。このモデルが、もっとも多くの親の、多くの状況における心理状態を説明しうるものと思われる。
 これまで障害児の親の障害受容過程についての研究においては、子ども本人と最も長い時間をともに過ごす母親が重要視されてきた。しかし、母親の手記やアンケート結果を見ると、母親の第一の相談相手は夫(父親)であるという(ぽれぽれくらぶ,1995)。すると、父親がどのような受容をしているかによって、母親の受容のありようも左右されると考えられる。父親を対象とした研究を行うことは難しいが、母親の語りから父親の姿をある程度は見通すことができるように思う。次節では親たちの手記から、父親の障害受容の姿、母親にとっての父親の役割について考えてみたい。


   2.障害児をもつ父親の障害受容について―― 手記からの検討
 従来の研究では、桑田ほか(2004)がまとめているように、質問紙法か面接法によって母親の障害受容のあり方を探るものが多かった。この二つの方法では、調査を行った時点の親の心理しかつかむことができないが、親は長期間にわたって子育てを行うのであり、心理にはなんらかの動きが生じているはずである。
 比較的長期の親の心理のあり方を知るために、親たちの手記を参考にしたい。手記であっても、手記を書いた時点での心理ということになるが、質問紙法や面接法よりは長い期間について対象とすることができ、また特に主題をきめずに親の気持ちを書き綴った文章の中から、参考になる部分を洗い出すことで、問題についてより深く考えていくことができるように思う。

 母親の手記としてまとまっているものに西原由美(1997)『海くんが笑った。』がある。西原家のことに関しては現在も更新中のホームページがあり、新しい情報を手に入れることができる。また、雑誌『みんなのねがい』では家族がリレーエッセイを連載している。子どもが障害児になってから辛い時期、それを乗り越えようとしたさまざまな試み、行動、そして幸福感も得られるようにはなったが、そうするとまた別の問題が持ち上がる、という長い期間の家族の心の動きがわかる。
 『海くんが笑った。』は母親の手記が中心だが、その手記の中には父親の影響力の大きさをうかがわせる部分が多数ある。
 父親は、母親が子どもの障害を受容できずに苦しんでいるときにこまやかな気遣いによる助言をしたり、母親が子どものことだけにかかりきりである時期に、子どもに起こった事故について社会的に訴えていくための文章を書いてもいる。この母親が子の障害を受容する最も大きなきっかけとなったのは家族新聞を書く(以前書いていたものを復刊した)ことだったが、それを勧めたのは父親だった。母親は現状を見つめるのが辛いために文章を書いたり子の写真を撮ることに抵抗を覚えていたが、父親が「毎日、精いっぱい闘っている海の姿を親としてみんなに伝えてやりたい。もちろん、われわれ家族の悲しみや頑張りも知ってもらいたい。一番悔しくてしんどいのは海じゃろう。何も言えんようになったあの子に代わって、家族が伝えてやらねば誰がしてくれるんね」と背中を押したのである。もちろん、一歩進む母親を後からしっかり支えてもいた。このような父親のあり方が、母親の障害受容を勧めさせる要因になっていると言えそうだ。
 そうして少しずつ目の前の壁を越え、段階説でいうならば「受容」した段階に来たはずだが、海の生命の危機を乗り越え、多くの支援者も得られ、外出もできるようになった現在、母親や家族を先頭に立って支えてきた父親に心境の変化があらわれている。そのことは父親が書いている「海くん、あのね!」第3号に見ることができる。

 思えば海の事故から数年は、苦しかったものの充実した日々でした。精神的に不安定な妻を支え、海の介護に母親を独占された上二人の子どもたちを慰め、家族新聞や支援する会の会報を通して、事故の理不尽さを広く社会に訴える。どれ一つとっても「俺がやらねば、誰がやる」という、私自身が生まれつきもっている強引さ・がむしゃらさを押し通すことができました。
(中略)
 (引用者註:しかし、少しずつ困難を乗り越えるにつれ、そのような態度が)家族(とくに妻)を傷つけることが多くなりました。
 私には彼女に対して、「強くたくましい妻」という思い込みがありました。ですが、髪振り乱して海の介護や重度障害児の福祉の現実と格闘してきた妻も、生活の平穏化の中で彼女なりの空疎感・脱力感に苦しんでいたのです。そこには、家族が大きな転換点を迎えているにもかかわらず、それに適応しきれない、平凡な夫婦の姿がありました。


 このように、完全に受容しきる、ということはないと考えた方が妥当であることがわかる。やはり螺旋型モデルがもっとも近いようである。なお、大江健三郎は障害受容について上田敏との対談で、完全な受容というものはありえず、いつも仮の受容であるという考えを述べている。

 西原家のリレーエッセイが連載されている『みんなのねがい』には、母親と父親の手記が同じ紙面に同時に載っている「この子と歩む」シリーズがある。1990年11月号から始まったこのシリーズは、毎回、母親か父親の中心となる手記が3頁と、写真2/3頁、周囲の人のコメント1/3頁、計4頁で構成されている。このシリーズからいくつか例を挙げてみる。

例1:2005.4月号(22-25) No.172 小野光正
 父親が中心となる手記を書いている例である。
 長男(高1)、次男(中2)、真理奈(小6)、父母の5人家族。1歳半健診のころから少しずつ「ふつうでない子育て」が始まった。最初は「自閉傾向」といわれたが、その傾向がだんだん強くなっているといわれ、ついに自閉症と告げられた。
 ここで文章中に( )付きで、「(このステップが親の心の準備期間になったのかもしれません)」と書かれている。自閉症は診断されるまでに時間がかかり、その間の苦労は否定的に語られることが多い。しかしここではその期間を父親の立場で肯定的に意味づけている。
 お母さんは、良いと思えることは何でもした。今もしている。遠い病院へ通ったり、サークルに入ったり本を買ったり。一方、「お父さんは、制度とか療育の理屈ではかなわないので、愛情一本で真理奈に接しています」。ここでは母親の動きをきちんと把握したうえで、父親として自分にできることを考えている様子がうかがえる。
 小学校入学時に、放課後に家で一人にならないよう、学童保育に入れようとしたが、市役所の担当者に「重い子は入れない」といわれ、お母さんは「お役所の機械的判断基準として使ったことはわかっていても、なんで障がいの専門家でもない人に重いの軽いのと言われなければならないのか、重いのは言われなくてもわかっている、と悲しくなったそうです。」「そこでお父さんの出番です。敵討ちに出かけることになりました。」
 住民監査請求を行い、意見陳述したが、市の決定はくつがえらなかった。しかし現在では障がいの重い子も学童保育に通えるようになり、「小野さんのおかげ」と言ってくれる人がいて、真理奈には恩恵がなかったが、真理奈が人の役に立てたことをとても自慢したい、としめくくられている。西原家でもそうだったが、ここでも父親が社会へ訴えていく大きな第一歩を踏み出していることがわかる。

例2:2005.3月号(18-21) No.171 中島珠美
 母親が中心となる手記を書き、周囲のコメントとして父親が書いている例である。長女(20)、聡(19)、父母の4人家族。
 1歳半健診で精神発達遅滞といわれる。国立大教育学部附属養護学校へ入学。その前後に「金沢インリアル研究会」入会。2歳から「金沢手をつなぐ親の会」入会。
 思春期には理解されないとき、要求が通らないときにパニックをおこすようになった。中2から母子で出かけられなくなった。ただし、父親とのサイクリング、散歩、学校の活動での買い物などはできた。
 「スペシャルオリンピックス日本・石川」に入り、クロスカントリースキー、水泳のプログラムに父親と参加している。毎夜、腹筋・背筋運動をしている。
「私がきらいなのかと思うとそうでもなく、サインをしたり、触ったりしてきます。私とすること、父親とすることを区別しているようで(後略)」
 母親の手記からも父親の存在感の大きさがうかがえる。ここでは子どもが母親と父親とを区別しているように書かれているが、それは家庭内でしっかりと役割分担されているからこそと思われる。
 聡が小さいときには原因不明の腹痛で、「何度も夜中に夫に病院へ連れていってもらい、医師から『育児、たいへんですか?』と聞かれていた」、泣いてばかりいた母親だが、聡の成長とともに「金沢手をつなぐ親の会」で知り合った仲間、先生、先輩のお母さん方と話すうち、「なるようにしかならないと腹をくくることができ」た。現在は近所でもかわいがってくれる、玄関におじゃまする家も数件あるという。
 周囲のコメント「毎夜、腹筋につきあって」(父・邦彦)より以下に引用する。

 「ハート面」でなく「ハード面担当?」の父です。母親の手記にあるように、中学以降、体力的に大人に近くなったころから、(中略)季節に合わせ、手を替え、品を替えながら、聡の体調維持に励んでいます。/そんな思いにさせられたのは、聡が小学校高学年のころ、地元のテレビ局で、年上の障害者の方が、スポーツ大会出場のために、夜、基礎トレーニングに励んでいるようすを紹介する番組を見たときです。「こんなかたちに少しでも近づければなぁ」と思い、毎夜の腹筋がはじまりました。

 教育熱心な母親とは別の視点から、何気ないことから子どもとの運動をはじめた父親の言葉からも、母親とは別の観点から母親、子どもの両方を支えていることがわかる。

例3:2005.11月号(30-33) No.179 藤原妙子
 母親が中心となる手記を書き、周囲のコメントとして父親が書いている例である。長男(23)、長女(22)、宏行(13)、父母の5人家族。
 宏行は生後2ヵ月でダウン症と診断された。顔つきが上の子とちがっていたので、「もしかしたら…」と、心の準備はできていたはずだったが、涙が出て止まらなかった。夫は、「宏行がダウン症であることにまちがいないのなら、これからは、この子にとって一番いいと思うことをしてあげよう」と、支えてくれたが、母親は抱いた宏行を見ながら、「手を放せばつらさから解放されるかもしれない」と考えたこともある。
 同じ障害のある子の母親たちと知り合い、その人たちがつらさを乗り越えているのを見ると、自分だけがつらいのではないと思えた。
 周囲のコメント「ひょっとしたら…と」(父・嘉隆)には下記のように書かれている。
 宏行がダウン症だと知ったときには、ことばさえ聞いたことがなかった。医者の話や、自分で調べているうちに、大事だと思いながら、一方で冷静だった。

それは妻の落胆ぶりがたいへんなもので、私まで取り乱したのでは、今後家族の生活を支えていくことに大きな支障となるのではないかという、自分勝手な妄想だったのでしょう。(中略)最近、わが家に宏行がいなかったらどんな家庭になっていただろうと、考えることがあります。(中略)今のような笑いの絶えない強いきずなでつながった家族でいられるのは、宏行が生まれてきてくれたおかげだと心から感謝しています。

 父親は謙遜して書いているが、常に母親よりも一歩先の視点をもちながら母親を支えていることがわかる。母親は夫の支えがあってもなお立ち直れなかったと語っており、他の多数の例にもあるように、同じ立場のお母さんたちとの出会いによって救われたと自覚しているようだが、もっとも身近な夫(父親)の支え(理解)なしには、他人との出会いもなかったのではないかと思われる。たとえば明石洋子『ありのままの子育て』には、父親が子の障害を認めず、子と母親が障害児のための集いに参加することを禁じたことが書かれている。
 他にも、『旨味。』や竹田ほか(1989)に、父親が重要な助言をしている様子が語られている。
 以上のことから、父親の役割は以下のようにまとめられると考える。


@母親の精神的な支え
A母親とは違う視点から、
 母親が意識化・言語化していない事柄に
 意味づけ・発想の転換を行う
B社会とのつながりをつくる



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