.・oO 月出づる処

「わかっています。」
 所長が命を出す前に、所員一号は返事をした。
「……可愛げのない、」
「仕事に不要のものですから。」
吐息しながら遠眼鏡を覗き、向こうの雲行きを見ることに集中する。
「まぁ、いい。材料は、」
「本日はカムパリ、シャルトリュウズ二種、キュラソォ二種、ヴァイオレットです。」
「ベェスは火酒だな、」
「それしかありません。」
「いやなに、数回に分ける手がある。それならば、ラムもいける。」
 今度は所員一号が不服そうに吐息する。お互いに相容れない二人。だが、だからこそ、いつも違う、面白いものを創ることができる。
「まぁ、いい。調合は君の領分だ、任せる。方角と距離は私が計算しよう。」
なにしろ所長と所員が各々一名ずつしかいない、この虹製作所極東支所のこと。業務はなかなか忙しい。
「いかがですか、」
材料を調合し、機械に仕込みながら、所員一号は時機を訊ねる。所長はしばらくの無言ののち、小さく首を振った。しかたがなく、所員は次の要請に備えて材料を整えはじめた。と、
「今だ、一号!さあ!」
所長が手をあげる。一号はこの仕草と声があまりにも好きで、勤めを辞められないのだった。
 雲が切れ、陽が梯子を下ろしかけた、その瞬間、所長の声が響く。一号がここぞと照射する。すると見事に七色の橋が架かってゆくのである。

 瀬音に隠れて泣いていた少女は、目の前の滝に美しい虹を見た。あゝ、月が出ていたのだ。雨はいつの間にか止んでいた。辺りには暑さが戻っている。様子をうかがうような虫の声が葉陰から漏れはじめていた。
 季節は過ぎてゆく。泣いていようと、笑っていようと。
 風に気づいて見上げると満月が、まだ夏らしい身近さで、非常に明るく其処にあった。周囲には小さな雲の群れが漂い、あたかも静止した波のよう。海を空に映し留めたのではないか、とつい思う。秋が、そろそろ来るらしい。
 光景の美しさに、ふと少女は呆気にとられた。細かい飛沫がゆっくり浮遊しているところへ、蒼く淡い光が射し、光の橋を創っている。少女のまわりに滝の音と虫の声とが薄い膜を張り、そこだけが宙に浮いた小さな球形の模型と化したのではないかと錯覚された。
「夜でも虹はできるのですね。」
いやに感嘆したふうに、所員は質問とも独り言ともつかぬ呟きをもらした。
「光と水があれば出来よう。」
至極もっともな、つまらない返答が、今は腑に落ちた。
「虹はできる。見た目は同じかもしれない。だが我々は材料を工夫することができる。」
「ええ。」
「君の今日の仕事は一段と冴えていたらしい。ほら、見てごらん。」
 ここに来てから初めてのことだ、所長が遠眼鏡を所員一号に手渡した。一号は一瞬、ためらったが、それを受け取り、レンズを覗いた。向こうでは少女が、やわらかな表情で、軽やかな足取りで、少し遠回りをしながら帰路につくところらしかった。ゆっくりと回ったり、手を伸べたり、爪先立ったりしながら。
 その姿を見てつい、一号はにやりとした。
「ふふん。気障な奴め。その材料の残り、どうする気だ。」
ぱっ、と遠眼鏡を取り返し、所長は言った。
「……どうしましょう、」
「しかたがない。行ってよし。今日はもう営業終了だ。」
「え。」
「それとこれ。使いたまえ。」
 渡されたのは、一束のカスミソウ。
 一号は危うく満面の笑みをつくりそうになって、寸前で堪え、礼を述べた。そしてそそくさと作業台の上に散らばっていた花々を集めて職場を出た。
 所長は彼の後姿を見送りながら、やはり余ったラムにキュラソォ滴らせて一息に呑み、のんびり戸締りをした。それから、さぁて今宵は何処にて呑まんと、髭を撫でながら思案げに出かけていった。
※「『雨が降ると』@八角屋作品より