.・oO 初夏の休日には
風馨る日曜の朝。地方都市のホテルの喫茶室で珈琲。相手は紅茶。親切な女給が空いた私のカップに訊きもせず紅茶を注いでくれたところだ。
朝といってももう遅い。陽が高く、周囲には若い男女の二人連ればかりが、これでもかと居並ぶ。そのちょうど中心へ、新郎新婦が煌びやかな衣装の裾を翻しつつ異様に大きな螺旋階段を降りてくる。客にとっては格好の見世物だ。
「いつ死んでくれるんですか」
華やいだ(或いは鬱陶しい)雰囲気など微塵も気にせぬ(否むしろその蔭に隠れての)科白。私は答えに窮する。窮していることを悟られたくないと思いながら、本当に窮していてそれを繕うのに有効な方法は思いつかない。喧騒に耳をとられたふりをして俯き、微笑。
ホテルを出るとすぐ、延々と続く一本道、狭苦しい地下連絡通路を歩く。不意に柱の陰に押し込まれて口を塞がれる。息ができない。抗わずに眼を閉じる。今このときも地上には太陽が燦燦と照っていて、その光の中を幸福な家族が闊歩しているのだろうと想像する。誰も通らない、晴れた日曜の午後、地下通路の途中で。靴音の残響。次の汽車は何時だったろう。
風馨る日曜の朝。地方都市の人気ないレストランで食事。相手は赤ワインを注文する。私は同じ形のグラスに注がれた水を呑む。
朝といってももう遅い。が、陽は雲に隠れ薄暗い。周囲には若い男女の二人連れさえいない。もう何処か適当な処へしけこんだ後なのだろう。
相手は此方が訊きもしない近況を滔々と淀みなく語る。なぜか同棲中の男のことは話さない。そのことさえ話してくれたら、或いは過去の男のことを話してくれさえしたら、私は気持ちよく(迷わずに心から腹を立てて)席を立てるのに。それを知っていて、決して話さない。私の弱みにつけこんでくる。
来るべきではなかった。毎回、席について数分後には後悔する。だが後悔する直前の数分間、相手の無事を確認する僅かな時間の平和を、つい求めてしまう。
都合のよい、後腐れない、適度な(偽の)親切さだけを求めて近寄ってくる相手を突き放せない。途中まで決意していても、最後には折れてしまう。そのくりかえし。一方的に望まない苦痛を引き受ける。期待される自分を裏切れない。自分自身こそが己に過度な期待をしているのかもしれない。理不尽な相手を受け止める寛大さを。
風馨る日曜の朝。地方都市の大型商店に入っている氷菓屋でカクテルの名がついたものを注文する。ライムの酸味がすてきだ。
朝といってももう遅い。外は炎天下。子どもも大人もみんなひ弱そうに、この小さな商店にひしめきあっている。騒音がうわーんとひとつのざわめきになって、それに溶け込めない私を一層孤独にする。
昨夜は呑みすぎた。たまたま隣り合わせた人を旧知の朋に見立てて一人で盛り上がっていた。生麦酒、純米吟醸、梅酒、そのあたりで焼酎に切り替えたことまではぼんやりと思い出せるが、それからどうしたのか記憶にない。気がついたら寝台に横たわっており、部屋の電気はつけっぱなし、服は着たまま、財布は空。
やっと起き上がってみれば太陽はもう真上にあり、何も食べられないのでしかたがなく氷菓でもと出かけてみれば今日は世間一般に休日。この人混みでもう何をする気も失せた。
なぜ自分は他の人のようにできないのだろう、とぼんやり思う。なぜ酔った勢いで相手に飛び込むことができないのだろう。なぜ酩酊を理由にできないのだろう。なぜ理不尽さを相手に押し付けることで甘えた気分を満喫できないのだろう。なぜ無口を装うのだろう。なぜこんなにも良い子になろうとするのだろう。
と、ひとつの答えが思い浮かぶ。「憎んでも覚えていて」ほしいと思えないからだ。忘れられるのは苦しいことだが、憎まれるのはもっと辛い。
こうしてゆっくりと回路をなぞることで頭の柔軟体操とし、立ち上がって自宅を目指す。明日からまた懲りもせずに一週間が始まる。できるのは、体を休めることくらいだ。
私は手に入らないものをこそ求めたのだ。身近にあるものには興味がない。
本当は何ものも私の手には入らない、と思っている。だから、どんな相手にも飽きたわけではない。ただ、いつも相手は私の中に神を見る、のだろうと思う。そして私が神をのみ求めていることを知って、自分がもっとも求められているのではないと知って、去る。「お前など要らない」という科白を捨てて。
「みんな同じことを云うよ。だから慣れた」
そして科白に加えて醜い憎悪の表情に、物理的な痛みまで捨てていく。
みんな捨てていくのだ。私が決して捨てられないものを。
朝といってももう遅い。陽が高く、周囲には若い男女の二人連ればかりが、これでもかと居並ぶ。そのちょうど中心へ、新郎新婦が煌びやかな衣装の裾を翻しつつ異様に大きな螺旋階段を降りてくる。客にとっては格好の見世物だ。
「いつ死んでくれるんですか」
華やいだ(或いは鬱陶しい)雰囲気など微塵も気にせぬ(否むしろその蔭に隠れての)科白。私は答えに窮する。窮していることを悟られたくないと思いながら、本当に窮していてそれを繕うのに有効な方法は思いつかない。喧騒に耳をとられたふりをして俯き、微笑。
ホテルを出るとすぐ、延々と続く一本道、狭苦しい地下連絡通路を歩く。不意に柱の陰に押し込まれて口を塞がれる。息ができない。抗わずに眼を閉じる。今このときも地上には太陽が燦燦と照っていて、その光の中を幸福な家族が闊歩しているのだろうと想像する。誰も通らない、晴れた日曜の午後、地下通路の途中で。靴音の残響。次の汽車は何時だったろう。
風馨る日曜の朝。地方都市の人気ないレストランで食事。相手は赤ワインを注文する。私は同じ形のグラスに注がれた水を呑む。
朝といってももう遅い。が、陽は雲に隠れ薄暗い。周囲には若い男女の二人連れさえいない。もう何処か適当な処へしけこんだ後なのだろう。
相手は此方が訊きもしない近況を滔々と淀みなく語る。なぜか同棲中の男のことは話さない。そのことさえ話してくれたら、或いは過去の男のことを話してくれさえしたら、私は気持ちよく(迷わずに心から腹を立てて)席を立てるのに。それを知っていて、決して話さない。私の弱みにつけこんでくる。
来るべきではなかった。毎回、席について数分後には後悔する。だが後悔する直前の数分間、相手の無事を確認する僅かな時間の平和を、つい求めてしまう。
都合のよい、後腐れない、適度な(偽の)親切さだけを求めて近寄ってくる相手を突き放せない。途中まで決意していても、最後には折れてしまう。そのくりかえし。一方的に望まない苦痛を引き受ける。期待される自分を裏切れない。自分自身こそが己に過度な期待をしているのかもしれない。理不尽な相手を受け止める寛大さを。
風馨る日曜の朝。地方都市の大型商店に入っている氷菓屋でカクテルの名がついたものを注文する。ライムの酸味がすてきだ。
朝といってももう遅い。外は炎天下。子どもも大人もみんなひ弱そうに、この小さな商店にひしめきあっている。騒音がうわーんとひとつのざわめきになって、それに溶け込めない私を一層孤独にする。
昨夜は呑みすぎた。たまたま隣り合わせた人を旧知の朋に見立てて一人で盛り上がっていた。生麦酒、純米吟醸、梅酒、そのあたりで焼酎に切り替えたことまではぼんやりと思い出せるが、それからどうしたのか記憶にない。気がついたら寝台に横たわっており、部屋の電気はつけっぱなし、服は着たまま、財布は空。
やっと起き上がってみれば太陽はもう真上にあり、何も食べられないのでしかたがなく氷菓でもと出かけてみれば今日は世間一般に休日。この人混みでもう何をする気も失せた。
なぜ自分は他の人のようにできないのだろう、とぼんやり思う。なぜ酔った勢いで相手に飛び込むことができないのだろう。なぜ酩酊を理由にできないのだろう。なぜ理不尽さを相手に押し付けることで甘えた気分を満喫できないのだろう。なぜ無口を装うのだろう。なぜこんなにも良い子になろうとするのだろう。
と、ひとつの答えが思い浮かぶ。「憎んでも覚えていて」ほしいと思えないからだ。忘れられるのは苦しいことだが、憎まれるのはもっと辛い。
こうしてゆっくりと回路をなぞることで頭の柔軟体操とし、立ち上がって自宅を目指す。明日からまた懲りもせずに一週間が始まる。できるのは、体を休めることくらいだ。
私は手に入らないものをこそ求めたのだ。身近にあるものには興味がない。
本当は何ものも私の手には入らない、と思っている。だから、どんな相手にも飽きたわけではない。ただ、いつも相手は私の中に神を見る、のだろうと思う。そして私が神をのみ求めていることを知って、自分がもっとも求められているのではないと知って、去る。「お前など要らない」という科白を捨てて。
「みんな同じことを云うよ。だから慣れた」
そして科白に加えて醜い憎悪の表情に、物理的な痛みまで捨てていく。
みんな捨てていくのだ。私が決して捨てられないものを。