.・oO 自 己 分 類

 入れる範疇を探している。
 どこに入れてもらえるのか。
 結局、どこにも入れてもらえない気がしている。範疇と範疇の隙間を漂っている。
 これは自分の所為なのかもしれない。自分の入るべき範疇をきちんと見極められないのは勉強不足の所為なのかもしれない。
 そこで文字に起こしてみる。どう分類したらよいのか。そこから探ってみたい。

――障害について
 私には障害があります。重くはありませんが、あまりにも種類が多くて生活に支障をきたしています。そして絶対に回復しません(回復しないものをこそ障害と呼ぶのではあります)。環境や感情の変化によって症状が和らぐことはありますが一時的です。服薬はしていません。恐ろしいからです。基本的に生存する価値を自らに見出せないので、規則正しく服薬する気になれません。そして通院には莫大な資金と時間が必要です。障害者として申請せず、認定されない私にはとても無理なことに思われます。服薬している他の見知らぬ病人たちにとってその行為が良い方向に作用していると思われないことも、私がクスリを持たない一因です。
 クスリは魅惑的なものです。たとえ申請せずとも認定されずとも、とりあえずは何かしらの困難さを抱えるモノとして他者が自分を認めてくれたと酔うことができるからです。その全てが勘違いなのに。
 ところで私は訓練……リハビリテイションをしています。そうでなくても厭な自分が、何の努力もせずにただ呆けて死んでいくことには堪え難い屈辱を感じるからです。その訓練内容が適切であるかどうか、または効果があるかどうかは別の問題です。
 クスリを呑まずに間断なく訓練をしていると、症状が緩和されることがあります。ほんの僅かながら自己肯定感が生まれるのです。
 他者からどのような辱めを受けようとも決して口答えしない私のことを、被虐欲者だと嘲る人がありました。私はそうかもしれないと思っていました。
 同性の人しか真剣には愛せない私を、ずるい同性愛者だと母親に罵られたことがありました。私はそうなのだろうと思っていました。
 けれども今は違うのだと決然と云うことができます。これまでただ黙って屈辱に耐えてきた私が、誰も私という存在すら覚えていない今になって何故これほど饒舌になったのか。私は辱められた数十年前のあのときからずっと、なにかしら叫び続けてきたのだろうと思います。ただし自分にさえも理解できない、形にならない言葉で。私は今こそやっと、少しは他者に理解されるであろう共通言語を用いて、語ることができるようになった、ただそれだけのことなのだろうと感じています。
 一言で申し述べるなら、私は自由を求めているらしいのです。基本的な人権の守られる環境での自由な死を。私は幾つかの制限があるから生きているのであって、それが解消されたら生きる必要はありません。そのことを、いまさらのように理解したのです。

――性別について
 性同一性障害という障害を、私は信じられません。
 理由は、その障害があると主張する人々が必ず外見を最重要視しているからです。外見が内部(感情)にそぐわないことが不快である、という主張は不自然です。
 それも、性器、化粧、服装の三つがそろえば満足らしいところがまた不自然です。そんなに簡単に、性別というのは二つに分けられるものでしょうか。
 たとえば恋愛感情と友情の違い。はっきりと二つに分けられるものではないはずです。境界は非常にあいまいなものだと思います。
 どんなものも、きれいに分類することなどできない、というのが私の基本的な考えです。障害の有無も、男女も、恋愛と尊敬と友情も。白黒も。どんなものも。
 ですから、性同一性障害であると主張する人々は、自分の存在やその価値を周囲の人にわかりやすい形で認めてもらいたいだけだと思います。あるいは同性愛の言い訳でさえあるかもしれません。
 よく調査して統計を発表していただきたいと思います。心と体が、「生まれつき」(先天的に)違ったという主張は間違いのはずです。何かしら抑圧があったはずです。父母や保護者、環境(後天的な要素)が関係するはずです。そこをきちんと追求せずに、本人の主張(物心ついた当時の記憶)だけで障害認定されてはたまったものではありません。認定すればそれでいいでしょう、あなたの存在も認めてあげますよ、とお上に軽くあしらわれているのですよ。
 本当は、そんな障害を認定せず、自然に、いろいろ、ばらばらで社会に受け入れられればよいのだと思います。受け入れられる社会であるべきだと。
 しかし、同性愛となると少し話は変わります。ヒトの同性愛は生物学的には広がっては困るものだと、同性愛者は自覚するべきです。「認めろ!」と異性愛者に迫るのは間違いです。同性愛者は異性愛者から見て異質で理解しがたいものであって、しかたがないのです。それは自然の摂理なのですから。同性愛者は異性愛者と「同じ」「ヒト」であることを、自分から強く主張すべきではありません。もし同じだとしたら、もし同性愛者が多数派になったら、霊長類ヒト科はすぐに滅びます。あたりまえのことですが。ヒトとしてヒト社会で生きるなら、それを継続させるための摂理には従うべきです。
 異性愛者は、同性愛を「こういう感じ方もある」という程度の理解をすればよいと思います。あるいは、性的な衝動に結びつく恋愛感情までいかなくとも、友情や尊敬なら同性間でも感じるでしょう。
 だから、分けることなどできないのです。あえて無理に分けて、障害であると主張するのは、とても不自然で不毛な行為にしか思えないのです。また、その人たちがとても哀れです。一日も早くこの障害が認定されなくなればよい、といつも願っています。

___ 日本精神神経学会による診断のガイドライン ___
(1)性別違和の軽度および内容についての聴取
1) 詳細な養育歴・生活史・性行動の経歴について聴取する。
 日常生活の状況、たとえば、服装・言動・人間関係・職業の経歴などを詳細に聴取し、現在のジェンダー・アイデンティティのありよう、性役割の状況などを明らかにする。これらについて、生活史を本人自ら書き綴ったものを資料とすることも考慮されてよい。また必要に応じ本人の同意を得た範囲内で、家族あるいは本人と親しい関係にある人たちから、症状の経過・生活態度・人格に関わる情報・家族関係ならびにその環境などに関する情報を得たうえで、ジェンダー・アイデンティティについて多面的な検討を行う。ただし、これらの人たちと本人との関係に重大な支障を及ぼさなしくよう、細心の注意が必要である。

 ……結局は自己申告、自分の思い込み可、ということです。基本的に、苦悩を取り除くことに主眼があるのだから。
 だから問題なのです。性同一性障害であると主張する人々の苦悩を取り除く方法は、もっと他に模索されるべきです。これを「障害」と名づけることで、お金を払うことで、社会から問題としては抹殺されるのです。社会自体の内包する問題は解決しません。
 生き難さを抱える、その他大勢の苦痛を、どうやって解消しますか。ひとつひとつ障害名と階級と、それに見合った金額を考えていくのですか。
 自分だけの苦しさについて考えるのではなく、社会の問題として考えないと、いつまでも誰かの苦痛の上で成り立つ幸福しか得られません。
 そのことに、気づいておられますか。

 ……書いてはみたものの、やはり範疇を見つけることができない。
 網を重ねても重ねてもなお滑り落ちる砂粒のように。  範疇を探せないということは、仲間も得られないということだ。
 そうか。だから仲間がいないのか!孤独で当たり前なのだ。
 ということに思い至って、少し安心した。
 ヒト社会で生存している間は、孤独は罪だから。私は不断の努力をしながらなお孤独だ。それは許される罪であると、少なくとも今の自分はそう考える。