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 その夜、彼女は急いでいた。約束の瞬間までもう間が無い。今日この日に限って家主は彼女を離したがらなかった。彼女は何時も世話になりながら礼を欠いた自分の態度を心の中で家主に詫び、それでもひたすら家主が眠りに就くのを待った。祈りつつ懸命に家主をあやした。家主が繰り返される単純な遊びに飽きて放してくれるのを、態と退屈そうに緩慢な動作を示しながら。
 そして彼女は今、力の限り疾走する。駆け抜ける街並は静かだ。有るか無しかの彼女の足音が壁に反響して何処までも小さく伝わっていく。彼はきっと先に着いて待っている。あの水の湧き上がる海のほとりで。

 老人は重みで落ちた眼鏡を掛け直す。その時それまでは風の音ひとつしなかった表で幽かに素早い足音が通り過ぎた。老人は顔を上げて窓の外を窺ったが既に街並は元の通り静寂に沈み、何者の姿をも見出すことは出来なかった。音も無く、老人の動きに洋燈の炎だけが鋭敏に反応した。そして再た炎さえも気付かぬ物静かさで老人の指先は厚い書の頁を繰った。

 消えそうに細った月が仄かな光を庭園に灑いでいた。光は軽く、けれども確かな鋭さを以って全てのものに皎を刻み込む。痕は確実に光を呑み、次第に重みと存在感を増していく。
 庭師はその中で光を自在に操った。白昼の眼を避けて真夜中に、昼の光が足りない部分を補いに来る。どうしても陽の届かないひ弱なものに、少しだけ手を差し延べる。刃物は必要ない、その指先さえ有れば。
 庭師が蔭になっている処へ指を延ばすと光は障害を貫いて零れ落ちる。そうして植物は生来の勢いを、力を取り戻す。その繰り返し。
 庭師は踊る。軽やかに一定の律動に則って儀式を行う、口遊む謳は庭中の植物へ伝染する、萌ゆるも萎えるも彼の貴なる方の指先次第。
 そして庭中が詠い出す。聲はやがてひとつに集う。庭師に向けた歓喜の囁き。

 黙。
 唐突で深い真の闇。

 庭師は脚を留め、刻を闇を見送る、流れるものすべてを見据える眼差しで行方を追う、辿り着いた先には音。流れる音、溢れる音、満ちては干く音。
 そして永遠に満ち続ける予感が庭師の中を充たす。

 彼は全ての光が絶えた瞬間、彼女の気配を捉えた。彼が振り向くのと彼女が彼に飛び込むのは同時だった。
 全ての音は泉の立てる涼やかな音の中に吸い込まれ。
 老人は華の馨の薬草茶を呑む。
 庭師は見事に咲き誇る薔薇の馨の中に身を横たえた。
※[廻廊庭園]へ寄贈。