.・oO 追 録
終わる気配の無い、この線路だけを頼りに歩き続ける。意識は気を赦すと途端、独り走り出そうとするが、その先の無限を前に立ち止まり、また直ぐに立ち戻る。意識だけが飽かず彷徨し続ける。鬱蒼と茂る樹々の葉は無色の風に撫ぜられるが、色付きもせず音も立てない。何処までも彩の無い世界が続く。
「この先は何処へ続いているのですか」という簡単な問いにさえ応えて呉れる者は無かった。人々の口は重く、視線は遠い。ただその視線は一様に、森に消えた線路の先を示していた。
脚は頭の迷う暇を与えず、独り歩き出していた。意識に引き摺られながらの覚束ない歩み。
傍らでは常に何者かが入れ替わり立ち代り現われては話していく、知る限り、既に死んだ者たちが。実に身軽に現れては消え、気まぐれに話していく。それを微笑しながら彼らの表情も見ずに聴き流す。流す、すべては流れていく、それだけが事実、それだけが救い、そのことを母親の不意の言葉でではなく、彼らの咾によって気付かされたことが嬉しい。否、嬉しくはない、そう、光栄ではある。
頁を繰り、全身で律動を想う。単純な記号が音になり刺戟になり、情報として伝わる、そのことに今更酷く衝撃を受けた振りをして、足取り軽く、物云わぬ分厚い書が埋め尽くす書架の間に惑う。
奥では店の主人がハトロン紙を折り畳んだり広げたりする乾いた音が鳴り止まない。
夢中になりすぎて加熱しすぎた頭を紙片は、鋭い刃を顕し触れる指先を心持ち深く傷付け、血液の味によって注意を促した。
耳を塞いでいても、何処からともなく笛の音が滲み出し、僅かな安楽をさえ赦さない。露出狂の笛は様々な物語を無理矢理に聴かせる。不幸で不気味で不快な物語。抗っても無駄だと諦めた。頭痛が酷くなるばかりで。笛は徒らに音を重ねて今や十八本、各々が違う高さで同じ律動を連ねていく。呪詛の言葉は律動に依って直截に頭へ詰め込まれ、出口を塞がれているのを良い事に堆積の一途を辿る。そして言葉は一瞬たりとも動かずには居ない、飛び回り跳ね歩き、互いに打つかり合い融け合い、また分離し彷徨し探索し思索する。その間にも次から次へ新たな言葉が埋め込まれる。
嗚呼、とても黙ってはいられない、聴いて聴いて聴いて。
線路は未だ終わりそうにない。睡眠の調子が少しずつ狂って、今は真夜中を歩いている。街では鬱陶しい媚売りにしか思えなかった蟲の咾も、煩くは感じない。他者であるというだけで有り難くすらある。
殆ど空の見えない此処でさえ光は、樹々の葉の裏を伝い、枕木の脇で時折揺れる竜胆の花に輪郭を与える。茂った枝が空を覆い、闇の濃度を高めている。歩くことを忘れた脚は機械的に意識を残して進んでいく。そうして確実に刻は経ち、距離は縮まる。
扉の前で扉を叩くに至らず立ち尽くす。そんな事が幾度あったろう。立ったまま、偶然、中に居る人が出て来て呉れるのを待つ。更に出てきた人が微笑みながら優しく語りかけて呉れることを期待する。期待は裏切られる為にある、裏切られたからといって苛立ってはいけない、裏切られることをきちんと予測した上で期待していた筈だから。予測していた筈、随分以前から、予測を立てるには充分過ぎるほど永い間、もう数十年も以前から、立ったまま。
立っている、本当に立っていただろうか、待ち草臥れて座り込んではいなかったか、思い出せない。想い出す思い出す、記憶をでっち上げる作業に没頭する。だが心底没頭することは出来ない、扉の方が気にかかり視線を奪われる、仕方がないので没頭は諦めて元の通りただ茫然と立ち尽くす。
耳の直ぐ傍で「脚を呉れ」と盛んに云うものがある。無視して歩き続けるが、しつこく後について来る。
何処かで云い伝えを聴いたことがあった。脚を呉れというものに返事をしてはいけない、本当に両脚を差し出す覚悟が無いのなら。だが肝心の、そのものを諦めさせ追い払う呪(まじな)いの文句がどうしても思い出せない。笛が不協和音で煽る、脚が慾しい、脚を呉れ、お前には必要なかろう?
門をくぐると平原が広がっていた。右手には幾つかの元廃墟らしい瓦礫の山、左手には線路と平行に走る一筋の路。雲が無責任にあての無い予兆を撒き散らしながら疎らに空を描く。
目的地を確認してから左へ降りて坐り込む。路が皎く景色の中に浮かび上がっている。その上を、年老いた女性が独り横切る。祈るように、或いは寒さに耐えるように俯き加減で背をまるめて、布で頭を包み込み、手を前に組んで。自分は彼女が行き過ぎたら、土手の向こう側へ行こうと決意する。きっかけは何でも良い、動機にさえなって呉れれば、動かす力さえ有れば。
線路は目的を失った猛禽類のように次の木立の中へと勢いよく走って行った。
血液の味は他との連結を強いる。
無数に居る伯母のことを思い出す。伯母は腕の良い美容師だった。次の伯母は美容師の伯母よりも少しだけ運の良い理容師だった。その次の伯母は小学校で修身を専門に教えていた。そのまた次の伯母は鎌倉の工場で働いていたときに左手の中指を失った。
一つ二つと指折り数えてみて、数え続けて、思いつく限りを挙げて、挙げた傍から消滅していたことに、総べてを数えあげた後で不意に後ろを振り返って、初めて気付いた。
何を感じているのか…苦労して辿り着いた、神経を切り裂いた腕の中から引っ張り出そうと努力したつもりだった、それで一体何を其処で発見するつもりだったのか…分からない。
何も在りはしない、其処に、特定の時期に自分が居た訳ではないのだから、それは当り前のこと、事件はすべて流れ去って久しい、その痕跡は残された人々の手で見事に消された。当り前のことだ、其処で生活していくには、あまりにも目障りで不愉快なものが多すぎた、それを処分するのは当り前。瓦礫でさえ赦せない筈だ。では自分は何故、結末を予期せずにこんな処へやって来たのか、結末が其処に用意されていることを安易に望んだのか。それだ、それが判らないのだ。瓦礫の山を前に、それを突き崩すでもなく改めて石を積み上げるでもなく、ひたすら一心に呼吸する。
思い浮かぶのは…不意に出来た血の一滴を無意識に掬い取り、舌で味わった印象だけだ。
わたくしはあなたの存在を愉しむ、気配を、取り巻く空気を、眼を閉じて腕を延ばし指を伸ばし、掻き分けて探り、感触を味わう。一切の動きを止め、あなたの存在に近づく、近づく、近づくだけで一体にはなれない。判っていて脚を踏み出すには至らない、至れない、準備が整っていない。
あなたは応えない、わたくしは語りかける、語り続ける、執拗に不器用に間断なく、あなたの名を呼び続ける。あなたが――その名を呼んだ途端に消えてしまうことを識りながら。
「この先は何処へ続いているのですか」という簡単な問いにさえ応えて呉れる者は無かった。人々の口は重く、視線は遠い。ただその視線は一様に、森に消えた線路の先を示していた。
脚は頭の迷う暇を与えず、独り歩き出していた。意識に引き摺られながらの覚束ない歩み。
傍らでは常に何者かが入れ替わり立ち代り現われては話していく、知る限り、既に死んだ者たちが。実に身軽に現れては消え、気まぐれに話していく。それを微笑しながら彼らの表情も見ずに聴き流す。流す、すべては流れていく、それだけが事実、それだけが救い、そのことを母親の不意の言葉でではなく、彼らの咾によって気付かされたことが嬉しい。否、嬉しくはない、そう、光栄ではある。
頁を繰り、全身で律動を想う。単純な記号が音になり刺戟になり、情報として伝わる、そのことに今更酷く衝撃を受けた振りをして、足取り軽く、物云わぬ分厚い書が埋め尽くす書架の間に惑う。
奥では店の主人がハトロン紙を折り畳んだり広げたりする乾いた音が鳴り止まない。
夢中になりすぎて加熱しすぎた頭を紙片は、鋭い刃を顕し触れる指先を心持ち深く傷付け、血液の味によって注意を促した。
耳を塞いでいても、何処からともなく笛の音が滲み出し、僅かな安楽をさえ赦さない。露出狂の笛は様々な物語を無理矢理に聴かせる。不幸で不気味で不快な物語。抗っても無駄だと諦めた。頭痛が酷くなるばかりで。笛は徒らに音を重ねて今や十八本、各々が違う高さで同じ律動を連ねていく。呪詛の言葉は律動に依って直截に頭へ詰め込まれ、出口を塞がれているのを良い事に堆積の一途を辿る。そして言葉は一瞬たりとも動かずには居ない、飛び回り跳ね歩き、互いに打つかり合い融け合い、また分離し彷徨し探索し思索する。その間にも次から次へ新たな言葉が埋め込まれる。
嗚呼、とても黙ってはいられない、聴いて聴いて聴いて。
線路は未だ終わりそうにない。睡眠の調子が少しずつ狂って、今は真夜中を歩いている。街では鬱陶しい媚売りにしか思えなかった蟲の咾も、煩くは感じない。他者であるというだけで有り難くすらある。
殆ど空の見えない此処でさえ光は、樹々の葉の裏を伝い、枕木の脇で時折揺れる竜胆の花に輪郭を与える。茂った枝が空を覆い、闇の濃度を高めている。歩くことを忘れた脚は機械的に意識を残して進んでいく。そうして確実に刻は経ち、距離は縮まる。
扉の前で扉を叩くに至らず立ち尽くす。そんな事が幾度あったろう。立ったまま、偶然、中に居る人が出て来て呉れるのを待つ。更に出てきた人が微笑みながら優しく語りかけて呉れることを期待する。期待は裏切られる為にある、裏切られたからといって苛立ってはいけない、裏切られることをきちんと予測した上で期待していた筈だから。予測していた筈、随分以前から、予測を立てるには充分過ぎるほど永い間、もう数十年も以前から、立ったまま。
立っている、本当に立っていただろうか、待ち草臥れて座り込んではいなかったか、思い出せない。想い出す思い出す、記憶をでっち上げる作業に没頭する。だが心底没頭することは出来ない、扉の方が気にかかり視線を奪われる、仕方がないので没頭は諦めて元の通りただ茫然と立ち尽くす。
耳の直ぐ傍で「脚を呉れ」と盛んに云うものがある。無視して歩き続けるが、しつこく後について来る。
何処かで云い伝えを聴いたことがあった。脚を呉れというものに返事をしてはいけない、本当に両脚を差し出す覚悟が無いのなら。だが肝心の、そのものを諦めさせ追い払う呪(まじな)いの文句がどうしても思い出せない。笛が不協和音で煽る、脚が慾しい、脚を呉れ、お前には必要なかろう?
門をくぐると平原が広がっていた。右手には幾つかの元廃墟らしい瓦礫の山、左手には線路と平行に走る一筋の路。雲が無責任にあての無い予兆を撒き散らしながら疎らに空を描く。
目的地を確認してから左へ降りて坐り込む。路が皎く景色の中に浮かび上がっている。その上を、年老いた女性が独り横切る。祈るように、或いは寒さに耐えるように俯き加減で背をまるめて、布で頭を包み込み、手を前に組んで。自分は彼女が行き過ぎたら、土手の向こう側へ行こうと決意する。きっかけは何でも良い、動機にさえなって呉れれば、動かす力さえ有れば。
線路は目的を失った猛禽類のように次の木立の中へと勢いよく走って行った。
血液の味は他との連結を強いる。
無数に居る伯母のことを思い出す。伯母は腕の良い美容師だった。次の伯母は美容師の伯母よりも少しだけ運の良い理容師だった。その次の伯母は小学校で修身を専門に教えていた。そのまた次の伯母は鎌倉の工場で働いていたときに左手の中指を失った。
一つ二つと指折り数えてみて、数え続けて、思いつく限りを挙げて、挙げた傍から消滅していたことに、総べてを数えあげた後で不意に後ろを振り返って、初めて気付いた。
何を感じているのか…苦労して辿り着いた、神経を切り裂いた腕の中から引っ張り出そうと努力したつもりだった、それで一体何を其処で発見するつもりだったのか…分からない。
何も在りはしない、其処に、特定の時期に自分が居た訳ではないのだから、それは当り前のこと、事件はすべて流れ去って久しい、その痕跡は残された人々の手で見事に消された。当り前のことだ、其処で生活していくには、あまりにも目障りで不愉快なものが多すぎた、それを処分するのは当り前。瓦礫でさえ赦せない筈だ。では自分は何故、結末を予期せずにこんな処へやって来たのか、結末が其処に用意されていることを安易に望んだのか。それだ、それが判らないのだ。瓦礫の山を前に、それを突き崩すでもなく改めて石を積み上げるでもなく、ひたすら一心に呼吸する。
思い浮かぶのは…不意に出来た血の一滴を無意識に掬い取り、舌で味わった印象だけだ。
わたくしはあなたの存在を愉しむ、気配を、取り巻く空気を、眼を閉じて腕を延ばし指を伸ばし、掻き分けて探り、感触を味わう。一切の動きを止め、あなたの存在に近づく、近づく、近づくだけで一体にはなれない。判っていて脚を踏み出すには至らない、至れない、準備が整っていない。
あなたは応えない、わたくしは語りかける、語り続ける、執拗に不器用に間断なく、あなたの名を呼び続ける。あなたが――その名を呼んだ途端に消えてしまうことを識りながら。
※[廻廊庭園]と同主題で。