.・oO 回 路

「これは…一体何時淹れ了るのか知ら…」
 溜息混じりに齢の近い叔母が云った。彼女の姪は表情を変えずに機械の具合を眼で確認しながら次の雑誌に手を伸ばした。そしてやはり飽きもせず頁を繰ったり雑記をしたり鋏で気に入った記事を切り取ったりする作業を続けている。姪は誰と一緒にだろうと無言で居ることが平気らしい。叔母もこの数時間、折角誘われて来たのだし、姪は何処となく楽しそうでもあるし、彼女に合わせて懸命に黙っていたのだが、凝っとしていられない性質の叔母には、それもそろそろ限界だった。
「こうしてただ珈琲が落ちるのを眺めていて良い日なんて倖せじゃありませんか、」
「でも、いくらなんでも」
「長すぎますか」
「えゝ…一寸退屈」
 叔母は小さく伸びをして姪の方を見るが、姪は相変わらず膝の上の本から眼を離さない、が不意に顔を上げて、仕方がないというように微笑い、一滴ずつ滴る珈琲を眺めながら、何やら滔々と語り出した。

 或る処に仙人とその弟子が棲んで居りました。仙人は特にこれと云った仕事もせずに気楽に生活して居ります。ただ一人の弟子は普通の人間で、仙人の身の回りのことは良くするのでしたがどうも少し恍けた処が有って、其処が仙人の気に入っているのでした。
 或る朝、弟子は何時ものように仙人の起きる前に掃除を済ませ、膳の支度を整えました。このところ仙人は毎朝、銚子一本分の水を猪口で少しずつ呑むばかり。以前は年中水蜜を、何処からともなく取って来ては一食に一個喰うていたのですが。だから膳とは云っても白磁の銚子と猪口を一対、一応厳かに並べて置くだけのことなのです。
 仙人は陽の昇る前に起きてきて、庭の見える室に設えられた膳の前に坐ります。弟子は仙人が坐ったときに一言だけ挨拶をして直ぐに去り、次の作業へ移るのが習慣です。
 ところがその日は違ったのです。弟子が頭を上げたとき、
「お前、其処へお坐り」
 弟子は云われた通り坐り直しました。
「お前は何時もとても良くして呉れるから、今日はこれを一口呑ませよう」
 と云うと仙人は銚子を持って立ち上がり、裸足のまま庭へ出て行くと、少し窪んだ平たい石の上に湧き出ている水を汲み、室へ戻ってきました。
 「まあ、お呑み」と弟子に猪口を差し出しました。弟子は恐る怖る猪口を受け取り、怪しんで中を覗いてみると…一瞬、小さな水面に人々の犇く様子が映ったような気がしました。何だか善からぬ気配が漂っています。しかし、水は無色透明なのに不思議と非常に魅力的な馨がしていて、その余りの魅惑に負けた弟子は一息に猪口を空けました。すると―――何ということでしょう、様々な感情が一時に彼の体内を駆け巡りました。何という狂気、何という混沌、そして何という愉悦!
 弟子は暫く茫然とその躰を通り抜けた衝撃の余韻を味わいました。そして不図我に還って仙人を見ました。
「先生、これは―――」
「何だと思うね」
「はい…あの、魂かと、」
「そうだ。分かれば良い。それ、もう一口、」
「いえ、いえ、もう充分でございます、」
 それを聴いて仙人は嬉しそうに、珍しく高らかに哄笑い、後は自分で銚子一本、呑み干したということです。

「―――それが如何したというの、」
「その弟子という人に、この珈琲の淹れ方を習ったのですよ、私」
「……」
「面白いでしょう、」
「面白いと云うか…」
「如何なさいました、」
 叔母の表情は少し以前から凍り付いていた。
「あら、貴女のお力で何時もより早く入ったみたい―――召し上がるでしょう、」
 姪は既に立ち働き、かねて温めてあった茶碗を並べ、ひどく丁寧に珈琲を注いでいた。
 叔母は目の前に置かれた茶碗を手に取ろうとするが可笑しいくらいに震えて、器を口許まで運べない。何度か試みて漸く味わった。
 姪は彼女の叔母から少し離れた処に椅子を構え、自分も薫を愉しみながら叔母の美しい姿に見惚れた。

 呼ばれた気がして不図振り返ったが誰も居ない。呼ばれた気がしたのではなかったか、単に何かの気配を感じただけだったか。後ろめたいことは何も無いと自身に云い聞かせてはいても、どうしても周囲の視線が気になる。殆ど病気のようなものだ、常日頃、意識的に他者の視線を無視しようと半ば苦行のように堪えていた。
 街は何時も何も変わらない、確かに此処に在る、中身は空でも確かに在る、虚構だらけ虚飾だらけになって、美しく合理的に。街路樹の枝は風にそよぎもしない、その姿が少し羨ましい。自分も何にも反応せずにいられたらと今、若かった頃の妄想を反芻してぞっとする。また歩く方向を変え、細い路地に入る。大きな通りとは違い、時代を遡ったような気になれる、自分が落ち着いていられるのはこの前時代の遺物の中でだけなのだと、派手すぎる照明の中で感慨に耽る。
 時代は変わっていく、時間は流れていく、人々は往き過ぎる、逝ってしまう、何もかも、では自分は何故取り残されているのか、言葉を自分の中でどんどん紡いで、意味の無い単語を繋いで、自問自答に勤しむ。いや、答えはひとつも無い。ただ問うてばかりいる。問うて問うて、同じ問いも幾度か廻ってきて、それでも止めなかった。路に張り出した露台の上に乗っている動物の生生しい一部を殊更に凝視めて、再た感慨。
 多分実年齢よりもずっと年とって見えるのだろう露店の女性の視線に堪え切れなくなって、仕方が無くその動物の一部を買い求める。売り子のその女性は奇麗に洗ってある奇妙な形のそれを無雑作に新聞紙に包み、紙袋に入れて此方へ渡す。同時に反対の手のひらを上に向けて差し出す。彼女の動作のひとつひとつが気に入らず、突然逃げ出したくなって、手のひらへ紙幣を一枚乗せると踵を返し、もと来た路を戻った。虚飾の心地良さが慾しいときもある。
 そうして居場所、或いは目的地を捜し廻った。ただ歩いた。時間はなかなか過ぎない。楽しそうな通行人たちの表情ばかりが眼につく。
 次第に焦りを感じながら、不意に顔を上げると、見覚えのある扉。あとは何も考えずに扉を開けた。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
 その咾にはっとして、薄暗い店内の奥の方へ眼を凝らした。
「此方へどうぞ、叔母さま」
 叔母、という表現で気付いた。出てきた女性は自分の姪だ。どうも聴いたことのある咾だと思った。途端に安心して、背の高い椅子に坐り、ダァジリンが呑みたいと云ってみる。
「え、叔母さま、何時も珈琲を召し上がるじゃありませんか。今日はまた如何して、」
 彼女の姪は怪訝そうに訊き返す「折角用意してございましたのに」。叔母は憔悴しきった表情で何も応えない。もう一度、姪は問う「叔母さま、その袋は、」。
 そこで叔母はどきりとして自分の手を見る。何か得体の知れない紙袋を確りと握っている。紙袋からは何かが滴って、袋の底が破れそうに湿っている。
「それは何ですか、」
 叔母は慄いて思わず椅子を蹴って立ち上がり、二歩三歩後退る。大仰に両手で口を押さえ、今何かに気付いて驚いたというように眼を見開く。そして上目遣いに姪の表情を窺う。姪は静かに微笑いながら、何かしらとか何とかそれらしい科白をひとつずつ並べながら、ゆっくりと紙袋に手を掛けた。堪えられず、叔母は今や両目を手で完全に塞いで壁にぴったりと寄り添い、震えている。ただ不気味に姪の薄笑いだけが闇に浮ぶ。

「叔母さま」
 暫くしてその咾で気付いた。
「さあ、冷めますから、どうぞ」
 何時の間にか姪が目の前で茶碗を差し出している。照明が抑えてあって表情がよく見えない。「あゝ、有難う」と云いながら、茶碗を持ち上げながら凝っと彼女の方を窺い……愕然とした。闇の間から垣間見えるその顔は正しく。
※[BOX MAN]オムニバス企画第三弾参加