.・oO 密 室

 嗚呼…再た聴こえる、未だ聴こえる、どうして彼奴はこんなに煩いのだろう。
 唄…、唄なのだろうか、唄と云えるのだろうか、とにかく節は付いているようだがどうにも不安定で旋律も律動もあったものではない、不快な音が連続して流れて来ては近くに居るものを苛んでいるだけで。
 唄かどうかは知らない。ただ確かなことは彼奴が自分の卵だけを何時も何時までも大事に抱え込んでいるということだ。
「手を入れないで。決して扉を開けないで」
 室温が上がるから、あの子が泣き出すと困るからと、少し手を触れただけで彼奴は癇症な咾を上げて云うに違いない。

「ねえ、一寸覗くだけで良い、ほんの少し」
「駄目。少しでも駄目。貴方の手は温かすぎて」
「そんなことはない、大丈夫、低体温だから」
「駄目、やっぱりどうしても駄目。貴方は生きているから。生命の温もりをあの子に与えては駄目、私は決してあの子に与えてあげられないから」
「そんなに怖がらないで、さ、少しだけ」
 会話は成立しない、連想遊戯のように何処までも続いていく、不完全だからこそその先を継いでいかざるを得ない、そんな気にさせられる。
「それがとても怖いのです、貴方。ご経験ないでしょうけれど、それは恐いものですよ」
「何が」
「何が。貴方はご自身の為さろうとしている事もお判りではないのですね、」
「否、そんなことは」
「いゝえ、そうですとも」

「本当はその線をぷつんと静かに切れば良いんだ。ただそれだけなのに、」
 彼奴はその言葉に応えない、もう何を云っても絶対に応えない、その一言が遊戯終了の合図をする爆弾だったのだから。
 彼奴は嗤い出す、唐突に腹を抱えて、そんなときでも必ず腹だけは大事そうに抱えて、大きく體を揺らして嗤う。しかしわたくしには分かっている、中で蠢く音が増えている、そうして確実に卵ばかりが殖えていく、決して孵らない、孵そうとしない、孵るはずのない卵ばかりが。

 それにしても何故、卵なのだろう、それをわたくしは訊けずにいる。第一何故こんなことになってしまったのか…自分のことに想いを致すのも忘れていたくらい強い刺戟を受けた、何ということのない或る日の或る路で、角を曲がった途端、其処に一面の腕が波打っていたのだ、わたくしは茫然とその光景に見惚れ、勿論家への道筋を忘れ、通りかかった親切な方に此処に連れてきてもらった、ところがこの、彼奴の他には何も無い狭苦しい室で、何をすることも無く何をすべきだったのかも分からないまま、どれだけ時間が経ったのかも全く把握していない、今やはり茫然と、彼奴と向かい合って膝を抱えて冷たい床に坐っている。

 彼奴は再た唄い出す、美しい咾で外れた音を発し続ける、ひたすらに卵に云い聞かせる、此処は安全、此処なら大丈夫、眠っていて、ずっとずっと、貴方は確かに私が生んだ、もう放さない---
 良い言葉だ、思わず酔い痴れる、けれども酩酊出来やしない! 余りにも音が外れていて、どうしてもその催眠にのめり込んでいけないのだ、大体此処は寒すぎる。
 そうだ。そうしてわたくしは彼奴の膨れた真皎な腹を眺め暮らす他ないのだ――彼奴の内部から。
※[BOX MAN]オムニバス企画第二弾参加