.・oO 足 音

 緊張しているのだ、と思うと此方も緊張した。だが心配など必要無かった。即興で入れた弦のために入り刻を読み違えた合唱を待つ余裕すらあった。当たり前のことではある。
「此方が合わせられるのは当たり前。これで飯喰ってるんだから」
 なんて凄い言葉だろうと十年前にも思ったが、そのときの強烈な印象は今もまったく変わらなかった。気合いの入らない合唱団に、突然伴奏を止めて楽器の後ろから突き刺した、その瞬間をまざまざと思い出し、彼女の恐ろしいまでに気迫のこもった指揮を今、目の当たりにしたのだった。
 いったい何故これほどまでに執着しつづけるのか、考えてみる。念願だった録音。予想以上に夢中になって聴き返した。何度も何度も同じ曲を、聴いたこともなかった旋律をすっかり口ずさめるようになるまで聴いた。譜を手に入れて、自分も同じ数だけある鍵盤に向かってみる。同じ音階を辿る。彼女とは比べようもなく鈍い、響かない、美しくない旋律。それでも同じ高さの音を自分の指で浚えるというだけで至極倖せな気持ちになれた。
 第一音が良いのだと気づいた。心地よい強さ。決して押し付けがましくない、自らの内部に向けられた厳しさ。それがうかがえる第一音。躰に似合わぬ強靭な指先が自在に音を紡ぐ様。あの音が私を呑む、押し流す、消し去って呉れる。強い、強い力……

「楽器を壊したかもしれない」
 数日後、あの懐かしい微笑を見た。もう二度と見られないだろうと諦めていた、その表情に釘付けになった。「連弾の途中。変な音がしていたもの」、変な音が変な音が、と繰り返し、彼女は来年からのことを口の端にのぼせる。来年からあの会場は借りられないかもしれない。微笑。
 来年から、更にその先のことまで考えている。日常をしっかり生きながら、先に為すべきことの見えている偉大さ。密かに録音した音を、四六時中夢中になって聴いているのだとは云えなくなった。来年も再たきっと聴かせて欲しいと、その単純な一言を呑み込んだ。
 風が強かった。細く開けた扉の隙間から、ほそぼそと言葉を交わした。ほんの一言二言。その隙間からも風は無遠慮に吹き込み、彼女の刈り揃えた短い髪を揺らす。まだ肌寒い春先の午后、彼女の娘二人が彼女の足許で戯れていることに気づき、急いで扉を閉めた。

 痩せた、と思った。随分久しぶりに見た背中。暫く前面しか見ていなかったのだ。子を抱く、正面の表情をしか。背は昔どおり、華奢でしかも気迫に満ちていた。流れるように伸びた肩、腕、その先の指の先端まで、一連の筋が美しく動いていた。そして視線。強い、眼の力。底知れぬ可能性を漠然と感じさせる、その表情。漠然と…… 具体的でない代わり、延々と続く長い道のように、果てしなく先へ先へ、差し伸べられた指先…… どんなことをも乗り越えていく力を、何処からか手に入れたのだろうと感じた。
 何処か。理解っている。それは守るべきものの存在。

 彼女は何時も、まるで規則に従うように襟のきっちりと合わされた少しも隙の無い洋服を着ていた。
 私は一度だけ、楽器の上に静かに飾ってあった写真を見たことがある。彼女が学校の教室で演奏している姿を映したものだ。その画の中で若い彼女は演奏会用の盛装をしていたのだ。大きな楽器とともに姿が入るよう撮影されたものだから彼女自身の表情や服の細部までは見えないが、確かに鎖骨がのぞいていた。両肘を幽かに開いた瞬間のその画の中で。
 ひどく若かった彼女は生真面目に演奏に没頭しているように見えた。

「十五番が雨だと云われているけれど、私はこちらの方が雨に聴こえてしかたがない」
 譜を繰りながら何時か彼女は云った。前奏曲だった。それが何番を指して云っていたのかが、どうしても思い出せない。ひたすらに言葉だけを追っていたから。言葉、音、聲、空気。掴み得るものすべてを掴もうと手をいっぱいに伸ばし、そして遂に何一つ得られないうちに腕のだるさが我慢できず、私は力なくすべてを諦めた。
 音も無く雨の降る日、私は何時も彼女の言葉の持つ音だけを何時までも辿っている。

 あの演奏会で。横に立ち、あたかも重大な役を負った騎士を気取って不器用に頁を繰った。不慣れでしかも緊張していた。巧く出来る筈もない。彼女は一言も咎めずに私の悦びを識ってか知らずか、短い言葉で礼を述べた。私は深く頭を下げたまま二度と上げられずに、彼女の脚が去っていく音を聴いていた。背を見送ることさえできずに。