.・oO 未 送 信

 音は設定していない。着信は一秒間の振動でわかる。通信の開始、ゾルダだ。
〈峠越セドモ河見エズ・月下美人ノ華散リヌ〉
 ……今日も何もないらしい。この一週間、何の指令もないことになる。血気に逸った私たちは苛立っていた。予定では今日あたり行動に出るはずだったのだ。ゾルダもずっとそのための準備をしていると私たちに話していた。全市数十人の同志が虎視眈々と時機を狙っていると。
 私たちの中でも最も気の短い同志ヴーケが早速文句を言う。
〈我々は行動すべきだ。我々独自の考えで。〉
 ゾルダからは、同志間の通信は緊急時を除いて禁じられていた。だが三日連続で指令がなかった、ある日の夜、異変が起きたのではないかとヴーケが言い始めた。同志クララと私は、彼女の気が短すぎるのだと相手にしていなかった。しかし一週間、ひとつの指令もないとなれば、ヴーケの言うことももっともに思われるのだ。
 遂にクララがはじめてヴーケに返信した。
〈考えてみる価値はあるのかもしれない〉
 私は机の前を離れて寝台の上に転がり、開け放した窓から射す月明かりを眺めた。

 自分が子どもであることにうんざりしていた。もう十四年も生きてきた。世の中がどんな風であるか、あらかた分かるつもりだ。世間はどうせ不実にまみれている。相手に誠実さを求めながら自分はそれを欺く。私たちはその汚さに馴染むように訓練されている。どうすればその流れから逃れることができるのか。或いは流れに乗ると見せかけて溺れず流されず生き延びる道がないものかと考えていた。
 まさかそれを悟られたのでもあるまいが、ある日、親から携帯電話を持たされた。私の動きを終日監視するつもりなのだ。叩き潰そうかと思いながら学校で苦々しくそれを眺めているとき、面白い話を聞いた。隣の学級で大人や教員を見返してやろうと企画している奴がいて、学校内だけではなく市内全域で同じ齢の者に声をかけて同志を募っているというのである。
「真実、携帯もっているなら、やってみない、」
 同志になる条件は志が高いこと、意志が固いこと、そして加入している電話会社が同じであることだった。通信手段が短いメールのみだからだ。幸い私は指定された会社のサービスを利用していた。
「運がいいよ。他の町じゃ、わざわざ親に頼んで会社を換えた人がいるって」
「あなたは、」
「私は偶然、同じところを使っていたけれど」
 重大な秘密でも話すような口ぶりで同級生の歩が耳打ちする。
「その気になったら私に連絡して。夜にでも。私がゾルダに真実の意志を伝えるから」
 歩は急いでそう言いながら周囲を見回し、誰にも聞かれていないかどうかを確認してから、何事もなかったかのように装う努力をして、教室を出ていった。
 親に頼む、という部分に多少の疑問は覚えつつも、退屈な毎日を改善するためにも、何かしら行動に出るためのきっかけになればいいかと、私は興味本位でその団体に参加することにした。
 その夜、聞いたとおりの暗号文を、歩に送った。
〈秋雨ヲ集メテ満チル天ノ川〉
 いやに緊張して、机の前に坐って歩にメールをした。するとすぐに返信がある。そのときすっかり気分が乗っていた私は既に着信音の設定を切り替え、音が鳴らないようにしていた。慣れない振動が思いのほか音をたてるのに少しびっくりしながら携帯電話を開く。ついさきほど登録した番号、ゾルダからだ。
〈ご加盟に感謝する、同志キリエ。同志クララとヴーケに加入報告をすること。〉
 たったそれだけの文章に胸を高鳴らせた。歩がクララであることは本人から聞いていた。もう一人のヴーケは誰なのか。いずれわかるのか、知らされないままなのか……未知のものに対する憧憬と期待とに、私は素直に従った。

〈Zの考え方や発想は確かに面白い。しかし我々の反逆を想定しなかった点でやはりコドモだった〉
〈我々はコドモであってはならない。コドモを脱却するためにこそ活動しているのではなかったか?〉
〈同志Vに同意〉
〈やはり決行か?〉
〈速成すべし〉
〈決起すべし〉
 これまでにない早さで話し合いはまとまった。ゾルダの指示なしにまとまれるなんて! 私たちは私たちだけでやれる、と思えることに非常な満足を覚えた。だが不安がないわけではなかった。何か腑に落ちない点がある。それが何であるのかまでは意識化できない。私は奇妙な満足感を否定せずに、二人が作った(と自分に言いきかせながら)波に乗るしかない。

 クララとは学校で毎日顔を合わせるが、活動についての話は決してしなかった。それどころか必要以上に無関係を装うようになった。もともと学級も違い、無理に話をする必要もない。自然と以前よりも疎遠になっていった。だが毎晩の連絡は欠かさず行っている。学校で現実に生きる自分と、外に見えていない自分のとの隔たりを何とも言えず爽快に感じていた。
 ゾルダからの指令はだいたい一日おきに出される。自分たちは全体から見てどの位置にあるのか、最終目的は何なのか、さまざまな疑問が日を追うごとに湧き上がってきたが、それについては誰にも訊くことができない。代わりにノートをつくることにした。書き留めるのだ、今に起こるであろう一大事件に向けて。
 某月某日、曇。定時連絡。番号を知られずに広報する方法を同志より伝達される。明日から実施する旨。
 某月某日、雨。定時連絡。士気高揚を狙い同志一人あたり無作為に選ばれた未加入者五人に向けて、それぞれ違う文面での伝言を行うこと。
 某月某日、霧雨。定時連絡。同級生何某の言動・行動を調査すること。特に教員に対する態度と同級生に相対するときとの相違、表情、口調に注意すること。
 某月某日、晴。定時連絡。一週間の成果について報告する。同志各人の成果を知る。
 某月某日、微風。ゾルダより講話……。
 某月某日……。
 記録を読み返しながら、ほんの二か月前のことがまるで数年前のことのように思われることを面白く思った。着信履歴はすべて消去しているので、このノートだけが記憶を辿るよすがとなる。あえて細かくは書かないので、思い出せない部分も多い。
 やはり一日おきには連絡があった。多いときは日を空けずに。しかし活動の内容は一進一退、決起するにはまだ時機を見る必要があるように思われる。とはいえ、指示が「待て」だけでは、待たされる方としてはたまったものではにない。ヴーケが苛立つのも無理はない。私も歯がゆい思いをしていないわけではない。
 と、今夜はもう終わると思われた通信が再開された。
〈Zを呼び出してはどうか〉
 意外にもクララからだった。私が返信を躊躇っている間にヴーケから返信が行く。
〈同意。緊急連絡を装い、早急に実行〉
〈弾劾の方法は?〉
〈呼び出しに応じた場合、明晩連絡する〉
〈諾〉
 私が返信する機会を失っている間に二人の間で話が進んでしまう。互いに加速させあうような呼応に、私は乗らないわけにはいかなかった。同志、なのだから。いつまでもコドモでいるわけにはいかないのだから。時間は限られている、躊躇っている暇はない。
 頭の片隅で後悔しそうな予感と戦いながら、返信しようとする指先の動きを止められず、ただ「諾」とだけ送る。二人はそれで満足したかのように通信を終えた。

 翌日も緊迫した調子での応酬が定時になると同時に開始された。
〈明日午後五時駅前、例の大衆喫茶店。印は聖書携帯〉
〈Zは?〉
〈了解済〉
 動悸が激しくなるのとは裏腹に、その夜のやりとりはあっさり了ってしまった。それだけなのか……? 誰も何も反論せずにこの波に乗ってしまうのか。そして後戻りできなくなってしまうのではないか……
 某月某日、細雨。ゾルダ弾劾についてVより提案。三人で事情聴取の末、結果によっては処……
 わざと淡々と記録をとろうとして、すぐに鉛筆を置いてしまう。視線を窓の外へ泳がせる。街灯が細かい雨粒を映している。道を往く、たった一人の靴音が高く響くほど辺りは深閑と。家人も既に寝静まっている。私は明日持っていくことになったカッターの刃を机上に並べて眺めた。刃の列は鈍く光って威嚇してくる。
 私は自分がどこかで、ゾルダに謀反を察知して贋の緊急連絡を見破ってほしいと願っていることを薄々感じていた。首謀者ならばその程度のことはできて当たり前だと思った。否、それができない者に従おうとした自分の愚かさに気づいてしまうのが怖かったのだ。
 何気なく刃を手に取り、肘の裏側に当ててみる。軽く当てただけで刃は簡単にぷつりと皮膚を破り、恐ろしくなって手を止めた。可愛らしい、小さな血の雫が生まれる。痛みはまだない。しかし同志VとCが針やら縄やらを持ち寄る手はずになっている。何も起こらずに済むとは限らない。とはいえ、何もしていないうちからこんなに怯えきっていることを、ゾルダにはもちろん同志にも決して悟られてはならないのだ。

 重い足取りで小雨が止まぬままの街へ出た、土曜の午後。もう夕方に近い時刻、夕食の買い物をする親子連れ、別れを予感しながら過ぎる時を惜しむ若い恋人たち、本屋で重そうに雑誌を手に取る会社員。長雨に落とされた街路樹の実が路傍で朽ち始めている。親の帰りを待つ子供が歩道の水溜りに長靴で入って独り遊びしている。見慣れた光景が目の前から去り行かずに頭の中で文章化されていく。他に何も感じないように、何かを守るように、私の頭はカタカタと鍵盤を叩く。
 急がないときに限って道程が短く感じるのは何故だろう。約束の時刻より三十分も早くその場所へ着いてしまった。しかたがなく店に入り、入り口近くに坐る。店内は若い男女と煙草の煙を髪にまとわりつかせたままの女性会社員で混雑している。窓から外の、先ほどから少しも変わらないように見える景色を眺める。席を確保して一息ついてからカウンターで紅茶を注文し、ポットを持って戻る。それでもまだその時刻までに二十分。お茶を飲まずに聖書、と呼んでいる人気のない流行遅れの漫画を円卓の上に置く。
 ふと人の気配がして顔を上げるとクララが入ってくるところだった。彼女はすぐに私を見つけ、目を合わさないようにして黙ったまま同じ席についた。円卓の上に置かれた本に気づくと目のやり場に困ったように、私と同様、窓の外へ目を向け、鞄を置いた。私も多分そうだったのだろう、と思わせるような溜め息を吐くと、彼女はカウンターへ向かい、季節はずれの冷たい紅茶を持って来た。
「……なんだか暑くて。気が急いたからかな、余裕があるのに早歩きしちゃった」
 それが着いてはじめての言葉とわかっていないのか、唐突に言った。私は返事をせず、幽かに頷いた。彼女の声を聞くのは数週間ぶりだ。と思った。この人はこんなに言い訳がましいことを言う人間だったろうか。と考えて、それはそのまま自分に当てはまるのではないか?もしかすると「こんなに無口な奴だったのか?」と思われているかもしれない、など余計なことばかり思い浮かぶ。クララも飲み物には口をつけずに、浮いている薄荷の葉を無表情に摘まんだ。彼女がそれを口にするのを見たのは初めてだった。
 残り五分、ヴーケが来た。店に入ってすぐの円卓上に聖書があるのを見つけ、一瞬、息を呑んだようだった。だが平静を装い、私とクララの顔を一瞥して、やはり黙って席についた。目礼しながら相手の顔を見やると、それは同級生の泰世だった。
 誰も話そうとしなかった。ここで弾劾する手順について最終の打ち合わせをするはずだったのだが。三者が黙りこくったままの五分間は長い。歩も泰世も聖書を持ち出す気配はなかった。私の頭の中で、鍵盤の音が遂に止もうとしていた。そのとき、約束の時間ぴったりにゾルダがやってきた。私は時刻を秒単位で表示させている携帯電話を鞄に滑り込ませた。
 店の扉を押して入ってきた瞬間にそれとわかった。歩と同じ学級の明良だったから。私たちは一言も喋らずに、誰からともなく速やかに席を立ち、人気ない公園へ向かった。雨脚が強くなっている。誰も傘をさそうとしない。端から見ればごく普通の子供四人が、押し黙って雨に打たれながら歩く様子は、さぞかし異様だろうと私は想像していた。他の三人は一体何を考えているのか……

 万が一の事故が恐ろしくて、高揚した自分たちを止める者がいないことに怯えて、私は約束のものを持ってくることができなかった。何も出さずに明良の手を束ねて持つだけの私を、二人は一言も追及しなかった。二人が持ってきたのも、予定よりずいぶん手緩いものだったから。泰世は畳針のはずが待針を、歩は針金のはずが麻紐を、それぞれ申し訳程度に鞄から取り出した。それでも歩は泰世に言われるまま明良の足首を縛り、私も彼女の手首を縛った。ごく軽く突き飛ばしただけで、無抵抗に彼女は地面に転がった。短いスカートの裾から伸びる細い腿に泥が跳ね上がる。私は気が遠くなりそうになった。高い音の耳鳴りを我慢しながら靴の爪先で明良の顔に泥を塗りつけた。あとの二人がそれをじっと見ている。明良は閉じていた目を開け、静かに私を見上げた。私は濡れた長椅子に倒れこむように腰掛け、それ以上何もしなかった。

 しばらくして、歩が口を開いた。
「これから事情聴取を行う」
 文字で見ればそれなりに重々しい言葉も、幼い友達の軽い声で聞かされると実に陳腐なものに思えてくる。それは口を開いた本人も同じと見えて、苦い顔をしている。しかし後戻りはできない。泰世も続く。私は椅子に体を預けて天を仰ぎ、目を閉じて耳を澄ませた。雨が周囲からこの場所を隔絶しているようだった。
「同志は何人いる?」
「……」
「何人だ?」
「……」
「何故これを読むことを強要した?」
 例の漫画を突きつける。明良は応えない。
「理由は?」
「……鍵」
「何?」
「……十字」
 私はその場にいる苦痛に堪えかねた。
「もういいよ」
 立ち上がろうとしたとき、泰世が先に叫んで、数冊の本を三人に思い切り投げつけて走り去った。その無責任さに腹立たしさを覚えることも忘れて、私と歩は吐き気を堪えながら明良を開放した。私たちは別々の方向へ向かって歩き出した。

 その場にいた全員が、初めはほんの遊びのつもりだったはずだ。夕闇の中に沈む公園の雑木林で、実際には何が起きたわけでもない。だが心に大きな穴をあけてしまった。それを新しい記憶できれいに塗りこめようと、私はそればかりを考えて、手始めに急いで家に帰ってから溶けきらないほどの砂糖を入れた熱いココアを飲もうと、そのことだけで頭をいっぱいにしようとした。けれど息が切れて足がもつれるまで走っても、不安は決して消えなかった。本当に新しい記憶を、穴を埋められるほど大量に手に入れることができるだろうか。穴はこれ以上広がらないでいてくれるだろうか。何もかも了ったのだとしたら、これから自分はどうしていくのだろうか……
 私は家の前で門をくぐらずに踵を返し、賑やかな通りへと走っていった。